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第七十九話 庭園 ーユリクシス大公ー

 薄い光が天蓋を透かしている。

 クロトは薄く目を開ける。


 隣にいるはずの人がいない。

 顔を向けなくてもわかる。

 いつの間に部屋を出たのか。


 夜明け前に起きて、そのまま執務室へ向かったのだろう。

 寂しさよりも、安堵した。

 今は顔を合わせるのがとてつもなく恥ずかしい。


「久しぶりに、爆睡しましたね……」


 呟いたクロトはしばらく寝台の端に座ったまま動けなかった。

 腹の奥が、じんわりと鈍く重い。

 痛みというほどではない。

 けれど、身体が変わったことを告げてくるような違和感。


 自覚した瞬間に、生々しく蘇る熱と感触と声。

 抱いていた枕に勢いよく顔を埋める。

 顔が熱いのは、朝陽のせいだと思いたい。



 けれど同時に。

 胸の奥が、温かい。


 ――お前は駒じゃない。


 昨夜の声が蘇る。

 あの腕の中では、クロトは実験体でも聖女でも、魔導士長でも王太子妃でもなかった。


 ただの、ひとりの女だった。

 それがこんなにも心地良いとは思わなかった。

 

(頭が回らない……)

 

 ほんの少しだけ休むことにした。

 控えていた小間使いに伝令を頼んでから、午前の光に誘われるようにクロトは奥庭へ出た。

 


 生垣は寸分の狂いもなく刈り揃えられ、花々は同じ高さで並び、どれも同じ方向を向いている。


 美しいけれど、何故か息が詰まる。

 ゆっくり歩いていると砂利を踏む音がした。


 規則正しい、控えめな音。

 そして、キイと小さく金属が触れ合う音が重なる。

 白い石畳の向こうから、車椅子の男性がこちらへ進んでくる。


 押していた侍従が途中で止まり、静かに下がった。

 ひとりで進んでくる青年。


 陽光を受けた髪は、淡いラベンダーアッシュ。

 銀にも紫にも見える、不思議な色。


 体の線が見えないほどのゆったりとしたシルクのガウンを身に纏っているが、覗く手首の細さは女性のようだ。


 婚礼の儀に、参列しなかった王族が一人いたのを思い出す。


 ()第一王子――ユリクシス。

 グリズリッドが王太子となった際に、一般貴族となり、大公となった男。

 クロトは一礼する。


「ご機嫌よう、殿下」


 彼は王族の証である深い青の瞳を細め、穏やかに微笑んだ。


「ようやく、会えた」


 初対面のはずだった。

 クロトは考えを巡らせる。

 けれど、掴めない。

 聞き間違いかも知れない、とひとつ結論付ける。


「……ご挨拶が遅れました」


 クロトの言葉に応えるように彼は小さく頷いた。


「大丈夫、知っているよ」


 ユリクシスは優雅に微笑む。


「初めましてと言うべきかな。それとも、おかえりと言うべきかな。……弟が手荒に君を扱ったようだけれど、体調はどうだい? クロト」


 クロトは思わず息を呑んだ。

 言葉の真意が全く読み取れない。

 どこまでが本当で、どこまでが冗談で、何かの比喩なのか。それとも全て言葉通りなのか。


「……ご心配いただくようなことはございません」

 

 婚礼の儀を終えたあとなら、夫婦間で行われることは誰でも想像がつくだろう。

 しかし、話の内容もさることながらあまりに適時であっただけに、まるで昨晩のことを覗かれていたような居心地の悪さを覚える。

 

 彼はその会話に対してさほど興味もないように、視線を花壇へ移した。

 鼻筋の通った横顔は女性のように繊細で美しい。

 その横顔だけ、グリズリッドにすこし似ている気がした。


「この花はね、接ぎ木で強くした品種なんだ」


 白と淡紫が混じる花弁。


「元はとても弱かった。すぐに枯れてしまう花だった」


 細い指が、そっと触れる。


「でも、強い根に繋いであげればいい。そうすれば長く、美しく咲き続けられる」


 胸の奥が、きゅ、と小さく疼く。

 理由は分からない。

 けれど、本能が警鐘を鳴らす。


「君は、花をどう思う?」


 突然の問い。


「……自分の力で咲くものだと思います」


 考えるより先に、口が動いた。

 ユリクシスは、ゆっくりと瞬きをする。

 それから柔らかく笑った。


「強いね」


 その声は優しい。


「でもね、強すぎる花は孤独になる。周囲と調和しないからね」


 湿度の高い視線は、妙に居心地が悪く感じる。


「強さはね、扱い方を知らないと不幸になる」


 視線が合う。

 深い青の瞳が、じっとクロトを見つめる。


「君みたいだね」


 一瞬、息が詰まった。

 返答できずに立ち尽くす。

 整いすぎた花々の中で、クロトは無意識に一歩、後ろへ下がっていた。


 車椅子の上の青年は、まるですべての答えを手元に隠し持っているかのような、奇妙な余裕を漂わせている。

 

「すまない、少し話しすぎたようだ」

 

 彼は車輪に手をかけ、ゆっくりと車椅子を反転させる。

 去り際、その背後から囁くような声が届いた。

 

「また会おう、クロト。……次は、その花がもう少し大きくなった頃に」

 

 立ち去る背中を見送るクロトの耳に、ふたたび規則正しい砂利の音が響く。

 けれど、その音はいつの間にか遠ざかっていた。


 花が大きくなった頃……。

 妙にその言葉が耳に残っている。

 

 陽光を浴びているはずの指先が、なぜか氷のように冷たくなっていることに気付き、クロトは思わず自分の手を握った。

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