第七十八話 転換 ー薄明の誓いー
東の空が薄らと白む頃、空は深い青から薄明へと移ろいゆく。
暗い部屋にうっすらと光が差し込み始めた。
目が覚めたのは、習慣か。
それとも、逃れられない責務の重圧か。
腕の中にある体温は、あまりに軽い。
抱き寄せれば折れてしまいそうなほど、薄い肩。
長い睫毛が落とす影、わずかに乱れた白金の髪、そして穏やかで規則正しい呼吸。
薄明かりに照らされたその無防備な姿を見て、グリズリッドは心の底から安堵し、同時に指先が震えるのを感じた。
毎晩彼女を失ったときのことを夢に見る。
あの無力感と喪失感は言葉にならない。
自らの魂を焼き尽くした空っぽのクロト。
冷えていく身体を抱きしめながら、ただ座り込むしかできなかった。
取り返しの付かない事態への後悔と自責の念。
そしてその無意味さ。
彼女のいない世界が続いていくことへの、底知れない恐怖。
ナシェルの魂の救済という奇跡がなければ、この時間は二度と訪れなかった。
もし彼女がいないままなら、グリズリッドはクロトの亡骸を抱いて王都へ帰り、抜け殻のように王太子という役割を演じ続けていただろう。今のように、自分の意志で足を踏み出すことなど、到底できなかったはずだ。
指先で、瑞々しい白桃のような彼女の頬をそっと撫でる。
その温もりが本物であることを確かめるように。
胸の奥で燻っていた残り火が再び静かに、激しく燃え上がる。
怒りは消えていない。むしろ、彼女を愛おしく思えば思うほど、それは苛烈な業火となってグリズリッドの血管を焼く。
だが、今はまだ、それを刃にして剥き出しにする時ではない。
寝台から、慎重に身体を抜く。
この安らかな眠りを一秒でも長く守るために。
一瞬、指が衣を掴んだ。
グリズリッドは小さく笑う。
「安心しろ」
その指先を優しく解き、自らの熱をそこに残して立ち上がる。
衣を整え、重厚な扉を開けて部屋を出る。
カチリ、と錠が降りる小さな音がした。
その瞬間、グリズリッドの瞳から体温が消え、冷徹な王太子の仮面が張り付く。
廊下は底冷えがし、夜明け前の城は墓場のように静まり返っていた。
執務室の扉を開く。
机の上には、昨夜から放置されたままの忌々しい台帳が鎮座している。
グリズリッドはそのインクの文字を見下ろした。
「政策、か」
静かに呟いた声が、冷たい壁に跳ね返る。
王は国を守るために、時に非情な決断を下すものだ。それは幼い頃から叩き込まれてきた帝王学の基礎だ。
だが、もしその守るという名目の裏で、救うべき命を選別し、尊厳を奪い、実験体として使い潰したのなら。
……その王が座る椅子は、果たして正しいのか。
グリズリッドは拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込み、鋭い痛みが走る。
王命、第零号。
署名したのは、グリズリッドがかつて仰ぎ見ていた父王か。
あるいは、玉座という魔物に魅入られた怪物か。
彼女を国家の部品として弄んだのが、この国そのものだというのなら。
グリズリッドは、この国家すべてを敵に回す。
だが、決して顔には出さない。
王太子は怒りで剣を振るわない。
だが、あれほど強く、理知的で、誰よりも誇り高く揺るがない女が、一瞬だけ空っぽになった。
自分の存在意義を疑い、足元から崩れ落ちそうになった。
誇り高い彼女を、その尊厳を、鋼の精神を、土足で踏みにじった。
それが許せなかった。
――怒るべきなのでしょうか。悲しむべきか、泣くべきか分からないのです。
虚無を見つめる、あの力ない瞳。
グリズリッドの胸を、どんな魔導よりも深く抉ったあの表情。
「……誰にも、二度と渡さない」
それは、もはや政治的な誓約でも、血統による義務でもない。
グリズリッド自身の魂に刻んだ、生涯唯一の選択だ。
静かに。確実に。
彼女のために、盤面を書き換える。
執務机に手を置く。
彼女は、あんな仕打ちを受けても折れなかった。
ならば、その隣に立つグリズリッドが、折れることなど許されない。
窓から、鋭い朝日が差し込んできた。
「騎士団長を呼べ」
控えていた騎士に命じる。
数分と経たず、扉を叩く音とともにレイドが現れた。
グリズリッドは彼を一瞥し、視線を資料へ戻したまま事務的に口を開く。
「教会査察の名目を整えろ。財務監査から入る。奴らの金の流れをすべて止めろ」
「失踪者名簿は本日中に。過去二十年分だ。一人も漏らすな」
迷いはない。思考は湖水のように澄み渡る。
「王命承認番号、第零号の原本を照会する。偽造か、本物か特定しろ」
一度口を閉じ、グリズリッドはレイドを改めて見る。
「……父上にはまだ上げるな。余計な勘繰りをさせる必要はない。証拠が、逃げようのない形で揃うまでは」
それは、ただの反逆ではない。
だが、従属でもない。
新しい時代を作るための、静かなる宣戦布告だった。
「……仰せのままに」
レイドは短く応えた。
だが、彼はすぐには去らずにじっと見つめてきた。
「なんだ」
グリズリッドは、この世で最も胡散臭いものを見るような目でレイドを睨みつけた。
「……いや。その、おめでとう」
レイドは、微かに、本当に微かに目を細めると、小さな声でそれだけを言い残し、音もなく執務室を去っていった。




