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第七十七話 誓約 ーあなたのいる未来ー

 扉が閉まる音が響いた。

 室内は暗く、月明かりだけが薄く床を照らしている。


 クロトは、まだ彼の手を離していない。

 離す理由が、見つからなかった。


「灯りは……」


 そう言いかけた瞬間。

 腕を引かれる。

 次の瞬間、背中が扉に触れた。


 

 息が、止まる。

 吐息が絡みそうなほど近くに、彼の体温が、すぐそこにある。


「クロト」


 低い声が名前を呼ぶ。

 クロトは、闇夜に浮かぶ深い青の瞳から目を逸らさない。


「俺は、お前を政策にした連中に怒っている」


 その声は静かだが、熱を帯びている。

 グリズリッドの視線が僅かに下がる。


「だが」


 彼の手が、クロトの頬に触れる。


「今は、それよりも」


 指先が、ゆっくりと髪を梳く。


「お前がここにいることを、確かめたい」


 心臓が、強く跳ねる。


「私もです」


 クロトは、彼の胸元に手を伸ばし、指先で衣服を掴む。


 彼の額が、クロトの額に触れる。

 呼吸が混ざる。



 静かに、唇が触れた。



 深くはない。

 確かめるような、口づけ。


 それだけで。

 胸の奥に張り詰めていたものが、ゆっくりとほどけていく。


 彼の腕が、背に回る。

 力は強い。

 だが、壊さないように。


 クロトはその胸に顔を埋める。

 鼓動が、聞こえる。


 


「……生きているな」


 彼が呟く。

 クロトは小さく笑う。


「殿下も」


 互いが生きていることを確かめて、二人は一度軽く唇を重ねる。


「……あのときは肝が冷えた」

「……あのときは肝が冷えました」


 重いため息混じりで同じことを言って、二人は目を合わせて笑う。


「いや、俺の方が。お前は実際死んでいた」


 確かに。

 クロトは納得しかけて反論する。


「でも私の方が必死でしたよ。文字通りですけど」


 刃を交えたときのことを、初めて言葉にした。

 なんとなく二年もの間互いに避けていた話題だった。


「俺は今でも夢に見る」


 クロトの手を握る、その手に力が加わる。


「あれは、もう経験したくない」

「じゃあ私、あなたより長生きしないと」

「頼む」


 そのまま、二人でゆっくりと寝台へ向かう。


「……すぐに再婚するなよ」

「あなたが死んでも?」


 グリズリッドは無言で頷く。

 クロトは珍しく声を上げて笑った。


「早死にされるつもりなんですか?」

「わからないだろ」

「私はずっとおばあちゃんの予定で話してました」


 衣擦れの音。

 月明かりの中、重なる影。


 抱き締められる。

 強く。


 

 そして。

 優しく。



 クロトは、彼の胸に手を当てる。


「グリズリッド様」

「なんだ」


 問いながら、額へもう一度口づける。

 唇が離れたあとも、距離はそのままだった。


 彼の指が、クロトの顎をそっと持ち上げる。


「銅像とか作っておくのはどうですか?」


 良いことを思いついたとばかりにクロトは目を輝かせた。

 グリズリッドの眉間が僅かに寄る。


「そうしたら、いつか死に別れてもいつでも……」


 言い終わる前に、もう一度口づけられる。



 今度は、深い。

 息を奪うように。


 指が、背に滑る。

 クロトは彼の衣を掴む。


 触れられるたびに、胸の奥の張り詰めた糸が切れていく。



 怒りも。

 覚悟も。

 王太子妃や魔導士長という立場も。


 今は、何もいらない。


「クロト」


 名前を呼ばれる。

 その声音が、いつもより少しだけ乱れている。

 それだけで、心が熱くなる。


 


 クロトは自分から口づける。

 確かめるように。

 欲しがるように。


 


 彼の腕が強くなる。


 体が持ち上げられ、寝台へと導かれる。

 布が揺れる。


 月明かりの中、彼の影が覆いかぶさった。

 大きな手がクロトの頬を優しく撫でる。

 いつもよりもすこし切羽詰まったような深い青の瞳が、彼女を見下ろす。

 頬を撫でていた手がぴたりと止まった。


「……緊張してきた」


 クロトは目を丸くする。


「殿下が?」


 クロトが笑った瞬間、重なった唇が僅かにずれる。

 かち、と小さく歯が当たった。


「……っ」


 一瞬止まって、二人で顔を見合わせる。


「……笑うな」

「ふふ……すみません」


 彼の手が、クロトの頬から首筋へと落ちる。

 そこに触れられただけで、息が震える。


「……グリズリッド様」


 名前を呼ぶのは、助けを求める時ではない。

 もっと、触れてほしいときだ。

 それを彼は理解している。


 指が、ゆっくりと背を辿る。

 鼓動が重なる。


 クロトの手も、彼の背に回る。

 強く抱き返す。


 これは慰めではない。

 選んだ結果だ。



 今ここで、自分の意志で。

 実験でも、王命でもない。

 クロトは、自分で彼を求めている。

 その事実が、胸を満たす。


 


 唇が首筋に落ちる。

 息が乱れる。

 指先が絡む。

 熱が、ゆっくりと溶け合う。


 


 やがて。


 


 言葉は完全に消える。


 


 あるのは。

 互いの体温と、確かな重みだけ。


 


 夜は、長い。

 そして静かに。


 


 二人は、ようやく。

 互いを選び直した。

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