第七十六話 本心 ー心に従えー
扉が閉まった。
部屋に残るのは、クロトとグリズリッドだけ。
さっきまでの緊張が、少しだけ緩む。
……疲れた。
クロトは思わず椅子に腰掛け、背もたれに完全に背中を預けた。
「クロト」
名前を呼ばれる。
優しい声だ。
「大丈夫か」
その一言で。
胸の奥に押し込めていたものが、揺れた。
「……はい」
反射のように答える。
だが、覇気のない声が出た。
まるで靄がかかったように、思考がうまく練れなくなっていた。
頭がじん、と麻痺している様だった。
グリズリッドは立ち上がり、クロトの前に腰を下ろすと跪いた。
「大丈夫じゃないな」
クロトは前を向いたまま口を開く。
「……サラが言うように、怒るべきなのでしょうか」
声が、少し掠れた。
「悲しむべきか、泣くべきか――分からなくて」
やっと出た、本音。
「私は被害者、なんでしょうか」
クロトは視線を落とす。
「もし王命なら……」
言葉が詰まる。
「父……クロンクヴィスト公爵が知らないはずがありません」
クロンクヴィスト公爵家は、代々王家に仕える魔導騎士の家系だ。
遠いが、王家の血を引く由緒正しい家だ。
公爵が王命を知らされずに公爵家の長女が実験体にされるはずがない。
グリズリッドは静かにクロトの手を握る。
「私は、つくられた駒……」
すべて言い終わる前に腕を引かれ、強く抱き寄せられる。
「お前は、俺の妃だ」
低く、断言する声が骨まで響くようだ。
「誰の駒でもない」
胸に顔を押し付けられる。
ああ。
やっと。
肩の力が抜けた。
「……殿下」
少しだけ、息が震える。
「でもやっぱり、怒ってるのかもしれません」
一筋涙が溢れた。
「ナシェルは……喜んで聖女になったのに」
なぜナシェルが聖女に選ばれたのか。
ずっと考えてもわからなかったことが、ようやく明らかになりそうだった。
「やっと主人公になれたって」
握った拳が震える。
「ナシェルは、何故死んだのか。結局未だにわからない」
グリズリッドの腕が、さらに強くなる。
「……もし」
クロトは小さく息を呑む。
「私を完成させるためだったなら……」
「国の政策を、一人で被る必要はない」
クロトの言葉を、グリズリッドは遮る。
クロトは腕の中で静かに首を横に振った。
「でも、多くの子どもの命が失われました」
「お前のせいではない」
しばらく、そのまま静かに時が流れた。
やがて、グリズリッドが腕を緩める。
「戻ろう」
短く促され、クロトは頷く。
「部屋まで送る」
執務室を出る。
扉が閉まる音が、無機質に響いた。
廊下の灯りは落とされ、夜の気配が濃い。
「殿下もお疲れでしょう。私は一人で戻れます」
グリズリッドは厳しい顔で首を横に振る。
「追跡した以上、教会側に狙われる可能性がある。第一王子派の暗殺者も潜んでいるかも知れない」
グリズリッドはクロトの手を取ると短く、行くぞ、と言った。
「……わかりました」
夜の城は静かだ。
二人の足音だけが、並ぶ。
そして、クロトの自室の扉の前で、二人は足を止めた。
「一人で大丈夫か?」
大丈夫です。
いつもの癖で反射的に答えそうになった。
でも、言葉が出てこない。
大丈夫。
すこし驚いただけ。
私は私、何も変わらない。
「大丈夫です」
言った、はずなのに。
彼が踵を返しかけた瞬間。
「……やっぱり待って」
クロトはグリズリッドの手を引いた。
切羽詰まった自分の声に、少し驚く。
グリズリッドが振り返る。
「どうした」
言葉が、すぐに出てこない。
引き止める理由が、うまく言語化できない。
「……やっぱり」
クロトは視線を逸らす。
「その……少しだけ、このままでいてください」
それだけ。
グリズリッドは何も言わない。
「命令か?」
わずかに笑う声。
「お願い、です」
正直に答える。
その瞬間、彼の表情が柔らぐ。
「なら、聞くしかないな」
親指で、そっとクロトの手の甲をなぞる。
「これでいいか」
クロトは頷いた。
それだけで終わるはずだった。
なのに。
クロトは、その手を離さなかった。
むしろ。
指を絡める。
グリズリッドが、わずかに目を見開く。
「……クロト?」
クロトは視線を逸らしたまま。
「殿下」
言葉が、少しだけ揺れる。
「あの、一生のお願いなんですけど」
クロトは真面目な顔をして彼の手を引いた。
「一緒に……いてもらえませんか」
珍しく、自分の感情のままを口にした。
彼の指が強く絡む。
「断ると思うか?」
低く、静かな声。
クロトは小さく息を吐き、薄く笑う。
手の熱だけが、確かだった。
自室の扉を開ける。
中は暗い。
振り返ると、グリズリッドの瞳が夜の中で静かに光る。
「安心しろ、何もしない」
「……正気ですか」
ほんの少しだけ、笑う。
「煽るなよ」
彼も低く笑う。
そして。
扉が、閉まる。




