第七十三話 爆炎 ー管理区域外にてー
夜の外郭区は、妙に静かだった。
王都を取り囲む外壁のさらに外。
巡回もまばらな湿地帯の先に、黒い影のような建造物が浮かび上がる。
それは塔でも、倉庫でも、教会施設とも違う。
窓がない。
壁面は滑らかな石で覆われ、継ぎ目がほとんど見当たらない。
装飾も紋章もない、ただの無機質な塊。
だが、その建物の上空に淡い光の糸が揺れていた。
フェイの指先から伸びる、細い金色の魔力の線が、空気を裂くようにその建物へと吸い込まれている。
「……ここです」
少年は短く告げる。
菫色の瞳は冷えきっていた。
隣で、レイドが首を傾げる。
「いやいや、どう見ても普通の建物じゃないでしょうこれ」
レイドはきょろきょろと周囲を見回した。
「もう不穏ですって書いてあるみたいじゃないですか」
フェイは答えない。
ただ、建物を見上げる。
空気が重い。
結界の匂いがする。
薄く、幾重にも張られた魔力の膜。
侵入を拒むというより――存在を隠すための術式。
「教会外郭の管理区域外ですから」
フェイが淡々と言う。
「記録上、この区画に施設は存在しません」
「……めちゃくちゃ秘密の場所ってことですね」
レイドががくりと首を垂れる。
「はぁ……こんな場所、いつの間にできたのやら」
そう言いながらも、彼の鳶色の視線はすでに入口を探っている。
フェイは一歩前へ出ると、掌を建物の壁面へ向けて静かに詠唱を始めた。
空気が震える。
魔力の膜が一瞬だけ揺らぎ、扉の輪郭が浮かび上がった。隠蔽結界だ。
「行きましょう」
「はあ……」
レイドは肩を竦める。
「帰りたいなあ」
「駄目です」
被せるように言い、フェイはレイドを置いて歩き始める。
その横顔は、妙に大人びて見えた。
レイドは軽く笑う。
「フェイ殿、王太子妃殿下に似てきましたねえ」
その言葉に、フェイの睫毛がわずかに揺れた。
だが何も言わず結界を解き、扉を開く。
「レイド卿はその軽薄なフリ、やめた方がいいと思います」
レイドは首を傾げてみせる。
「なんのことやら〜」
言葉とは裏腹に、右手にはめられた腕輪型の魔導具が淡く光る。
空中に現れた長い六尺棍を素早く接合させ、器用にくるりと一回転させてから持ち直した。
内部は暗い。
冷気が流れ出る。
石造りの通路。
天井には魔導灯。
奥へ、奥へと続く回廊。
人の気配はない。
だが、静かすぎる。
魔導具の微かな振動だけが、床下から響いている。
レイドが呟く。
「……研究所?」
壁面に刻まれた刻印。
魔力供給管。
防音処理。
そして――
消毒薬の匂い。
フェイの指先の光の糸は、迷いなく地下へと伸びていた。
「行きます」
その声音に迷いはない。
地下へ降りる階段は、やけに長かった。
足音が、石壁に吸い込まれていく。
魔導灯の白い光が、一定間隔で灯る。
人の気配はない。
だが。
フェイがぴたりと足を止めた。
「……います」
「うげ、早……」
その瞬間。
通路の奥で、何かが息をした。
獣の荒い呼吸。
だが足音は四つではない。
六つ。
闇の中から現れたのは、狼の体躯を持つ異形だった。
背は人の肩ほど。
灰色の毛皮の下に、硬質な鱗がまだらに浮いている。
そして背中から、人の腕が生えていた。
白い。
縫合跡が走る、子どもの細い腕。
それがだらりと垂れ、指先が床を掻く。
頭部は二重。
一つは狼。
もう一つは、横に歪んで接合された別の獣の顎。
双方が、別々に唸る。
胸元、心臓の位置に焼き印が見えた。
「……聖印」
その呟きを聞いたレイドが、天を仰いだ。
「……見なかったことにしたい案件ですねえ」
次の瞬間、キメラが床を蹴った。
速い。
牙がレイドの喉元を狙う。
「おあぁああ……気持ち悪いいいい」
レイドは不快に身を捩らせながら、棍を振る。
肉と骨が砕かれる感触。
だがキメラは転がり、すぐに起き上がる。
折れたはずの前脚が、ぐにゃりと音を立てて戻った。
「再生するか……」
フェイが小さく呟き、眉を寄せた。
キメラから発せられる聖力。
この感覚。
――どこかで。
別の個体が天井から降り、爪が石を削る。
そして、囲まれる。
唸り声の血の匂いが迫り来る。
――その瞬間。
警報結界が作動した。
赤い光が通路を走る。
天井から魔導陣が展開した。
轟音が鳴り響く。
通路の後方が一瞬で氷に閉ざされる。
逃げ道が塞がれた。
レイドが舌打ちする。
「かんっぜんに包囲されましたよ」
キメラ二体が同時に踏み込む。
殺意も感情もない、純然たる排除。
フェイが静かに息を吸う。
覚悟を決めた、その時――
天井が、爆ぜた。
それはまさに爆炎だった。
視界が真紅に染まる。
熱風から身を守るためにフェイは簡易結界を張った。
轟音とともに瓦礫が降る。
断末魔を上げる暇もなく、キメラ二体は焼き尽くされた。
炎の中から、女の影が降り立った。
紅の髪を高く束ねた女が、瓦礫を踏みつける。
太陽を思わせる黄金の瞳が細まった。
「ちょっとぉ! 邪魔よ!」
高らかな声が降り注いだ。
「あんたたち、燃やされたいわけ?」
最高位魔導士の制服を着崩し、シャツは胸の下まで開けられている。
黒の水着からこぼれ落ちんばかりの豊満な胸が、自らの存在を強調するように、ばいんと大きく揺れた。
「炎の最高位……!」
呼ばれた女は、にいと紅を引いた唇を横に引き笑う。
「サラ・ブランホードよ、君が噂の天才くんね」




