第七話 夜熱 ー夢と現実ー
目を覚ましたときに最初に感じたのは熱だった。
身体の芯に残る、鈍く重たい熱。
それと同時に、胸のあたりにわずかな名残のような温もりがあった。
……夢を見ていた。
天幕の内側は薄暗く、外から差し込む朝の光が布越しに滲んでいる。
頭が重く、喉がひりつく。嫌な汗をかいた後の感覚だ。
身体を起こそうとして、わずかに眉をひそめた。
腕が、妙にだるい。
――何かを、抱いていたような。
そんなはずはない。
ここは騎士団の夜営地で、グリズリッドは一人で寝ていた。
だが、感覚だけが残っている。
細い肩と背中。冷えた空気の中でも、確かに生きているとわかる体温。
そして、あの匂い。
砂糖菓子のような、繊細な甘い香り。
「……ナシェ」
声に出してから、はっとした。
誰もいない天幕の中で、自分の声だけがやけに生々しく響く。
喉の奥が、微かに痛んだ。
ナシェル。
半年前に亡くなった聖女と会ったのは、彼女が亡くなる一年ほど前のことだった。
妾腹の子であるグリズリッドは、王太子派の人間から命を脅かされて生きてきた。
毒、暗殺、事故――幼い頃からありとあらゆる手で殺されかけてきた。
自分でもよく五体満足で生きていられたと思う。
彼女と最後に会ったのは、毒を盛られ、生死の境を彷徨っていた夜だった。
医師たちが為す術なく視線を逸らし、夜明けまで保たないと言われたその天幕に祈るように現れたのが、聖女ナシェルだった。
誰が呼んだのかはわからない。
彼女は一晩中祈り、解毒してくれた。
そのときのことを夢で見たのかもしれない。
でも、手に残る温もりはやけにリアルだ。
そこで思考を止めた。
考える必要はない。
夢は夢だ。
高熱を出した時には、昔から妙に現実味のある夢を見る。
額に手を当てると、熱はもう下がっている。
天幕の中がやけに涼しいことに、今さら気づく。
火の魔導石が半分ほど減っている。
昨夜、こんな配置だっただろうか。
記憶を探るが、寝る前のことは曖昧だ。
――誰かが入った?
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がざわついた。
否定したいのと同時に妙な納得がついてしまう。
あの温もり。
腕の中に収まった感触。
苦しさが、すっと引いていった感覚。
(俺は、誰かに助けられたのか)
立場を思えば、答えは一つしかない。
この天幕に近づける人物など、限られている。
あの魔導士だ。
白金の髪に青い瞳の彼女の姿を思い浮かべた途端、胸の奥に小さな痛みが走った。
それは戒めに近い感覚だった。
彼女は護衛だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
身支度を整え、天幕の外に出る。
朝の冷たい空気が、肺に刺さった。
すでに彼女は、外に立っていた。
いつも通りの姿。
外套を整え、周囲に目を配る、完璧な護衛の立ち姿。
「なんだ、もういるのか」
平静を装い、そう声をかけると彼女は驚いたように跳ねた。
「ひゃう!」
光を集めたような白金の長い髪が彼女の動作に合わせて揺れる。
「……おはようございます」
人形のように整った美しい顔は、相変わらず眉ひとつ動かない。
なのに、白い陶器のような肌は蒸気し、耳まで薔薇色に染まっている。視線はぎこちなく、彼の顔を見ようとしない。
何かあったのだと、実にわかりやすかった。
「……なんだ?」
「逆に何がですか?」
早口でそう言った彼女は、グリズリッドから距離を取る。
あからさまなほどに。
「……中に」
「入ってません。全く、全然、一歩も」
グリズリッドは何も問わないことにした。
深掘りすることに意味を見出せなかったからだ。
彼女の背中が遠ざかる。
朝の喧騒に溶けていく華奢な後ろ姿を見送りながら、グリズリッドは思う。
夢の中で、確かに安らいだ。
あの瞬間だけは、何も考えずに眠れた。
それが夢だとしても。
現実だとしても。
「おはようございます」
声の主を脳裏に浮かべ、グリズリッドは振り返った。
「ああ」
騎士団長レイドはいつも通りにこにこと微笑みながら口を開く。
「本日予定通りランベリー市に入ります。ランベリー市は観光地ですので、数を抑えて入った方がいいでしょう」
「そうだな」
「変装も必要かと。殿下と魔導士殿は特に目立ちますので」
「任せる」
それ以上は、考えなかった。
「それから」
彼の鳶色の瞳がすこし陰る。
「ランベリーは、前の聖女様の出身地だそうです」
グリズリッドは目を瞬く。
知らなかった。
「そうか」
確かに訛りはなかったから、王都に近い街出身なのは納得だ。
(ナシェのことを何も知らないんだな)
「今日から、魔導士殿には僕の馬に乗ってもらいましょうか?」
ん?
返事が一拍遅れる。
レイドも小首を傾げている。
「魔導士殿は、私の馬に乗ってもらいましょうか?」
すこし大きくなった声。
いや、聞こえなかったんじゃない。
「……別に構わない」
「では、今日は僕の……」
「いや、そうではなく」
噛み合わない会話にイライラする。
「今のところクロト・クロンクヴィストに不審な動きはない。……ただし、魔導士としての実力は想定以上。引き続き注視する必要がある」
「――ああ、殿下自ら……ですね。失礼しました。では本日もお願いいたします」
にっこり笑って会釈し、レイドは去っていった。




