第六話 夢痕 ー呼び間違えー
夜明け前の空気は、まだ眠っていた。
騎士団の夜営地は静まり返り、焚き火の名残だけが赤く燻っている。
見張りの交代を知らせる低い声が、遠くでかすかに響いた。
クロトは、グリズリッドのテントから少し離れた位置に立っている。
魔力を極限まで抑え、気配も殺す。
魔力制御は得意な方だから、これは造作もない。
空を見上げると黒のベロア生地の上に宝石箱の中身をひっくり返したような夜空が広がっていた。
声を出さずに息だけで「わあ」と言うと、息が白く浮かんで消えた。
問題ない。
そう判断し、背中の力を抜いたその時だった。
テントの内側から、ガタンと物音がした。
クロトはテントの中の様子を伺うために出入り口を覗き込む。
短く、苦しげなうめき声が聞こえる。
「殿下?」
まさか、毒?
クロトは反射的に一歩踏み出すと、テントの入口に手を伸ばしていた。
布を押し上げると、むっとした熱気が流れ出した。
テントの中は異様に暖かかった。
いや、暖かいというより――熱が籠もっている。
(魔導石の使いすぎだわ。暖房の役目の火の魔導石がこんなにある。殿下を気遣って設置したのでしょうけど)
クロトはテントの中の魔導石を半分ほどの消し、一つだけ手に持って足元を照らした。
「……殿下」
寝台の上で、グリズリッドはうなされている。
額から頬にかけて汗が滲み、首筋に汗が伝っている。
シャツの胸元がはだけ、厚い胸板が激しく上下に動く。
喉が鳴るような、苦しげな息だ。
「殿下、大丈夫ですか」
クロトは寝台の脇に膝をつき、そっと肩に触れた。
それから強く揺すってみる。
「う……ぐ……」
軽く肩を叩いてみようか。
「殿下? 殿下しっかり」
グリズリッドの意識は戻らず、苦しそうにうなされたまま。
両肩を両手で掴んで揺すろうとしたとき、手首に強い力を感じた。
ぐいっと引っ張られると、あっという間に両腕の中に抱え込まれてしまった。
自分の頬がグリズリッドの胸板に潰されてひしゃげたのがわかる。
「でででで殿下!!」
頭から湯気が出そうなほど熱い。
汗とシダーウッドの香りに包まれて目眩がしそうだ。
「離してください!」
ばしばしと胸板を叩くが、グリズリッドは起きない。
徐々に彼の荒い呼吸が落ち着いて始めてきた。
「お願いだから! はーなーしーてー!」
両腕に渾身の力を込めて、上体を起こす。
薄目を開けたグリズリッドとぱちりと目が合った。
「そんなところに座ってたら、冷えるだろう」
そう言って、グリズリッドは破顔した。
光に解けそうな眩しい笑顔だった。
「ナシェ」
そう言うと、グリズリッドは再び目を閉じて眠ってしまった。
彼の指先から、少しずつ力が抜けていく。
荒れていた呼吸は正常になった。
やがて、規則正しい寝息に変わる。
息をするのも忘れて、クロトはその幸せそうな寝顔を見つめた。
いつも不機嫌そうなグリズリッドの寝顔は幼く見えて、あどけない少年のようだった。
クロトはしばらく、その場を動けなかった。
呼ばれた名前が、耳の奥に残ったまま。
ただの友人だと。
ナシェルとの関係をそう説明したグリズリッドの声が、脳裏に蘇る。
(ただの友人に……、あんな顔する?)
太陽とともに、騎士団の野営地は静かに目を覚まし始めた。
焚き火が起こされ、湯を沸かす音がぽつぽつと聞こえる。
クロトは何事もなかったかのように身支度を整え、グリズリッドのテントの前に立っている。
外套の留め具を確認する。
何度目かの確認かはわからない。
気持ちを落ち着けるために何度も確認する。
「おはようございます、魔導士殿」
礼儀正しい騎士の一人が声をかけてきた。
クロトは軽く頷き、挨拶を返す。
「おはようございます」
声もいつも通り。
至って普通。
グリズリッドが出てきたとて、平常運転。
「なんだ、もういるのか」
「ひゃう!」
背後から突然声をかけられ、変な声が出てしまった。
「……おはようございます。」
全然動揺なんてしていない。
ちょっと腕の感触とか胸板の感触とか思い出したりなんてしてない。
朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
肺の奥がひりつく感覚が、思考を研ぎ澄ませてくれる。
そうだあれは夢。
夢だったのだから。
――夢だったことにしておこう。
「……なんだ?」
「逆に何がですか?」
クロトは反射的に、一歩だけ距離を取る。
「……中に」
「入ってません! 全く! 全然! 一歩も!!」
クロトはくるりと踵を返す。
「本日の進行を確認して参りますです」
それだけ告げて、踵を返した。
グリズリッドは何も言わなかった。
けれど背中に、視線が刺さっているのがわかる。
クロトは歩きながら、昨夜のことを思い出さないようにする。
呼ばれた名前も。
腕の中の熱も。
あの、安心しきった笑顔も寝顔も。
――護衛は、主の夢に入り込むべきではない。
それでも、頭から離れなかった。




