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第六十六話 凱旋 ー王太子戴冠ー

 次に目を開けたとき。

 天井は地下神殿ではなく、見慣れた白い石造りだった。


 柔らかな陽光。

 重たい天蓋。

 薬草の匂い。

 少し懐かしい風の香り。

 

(王都の、風……)


 喉がからからで、指先が少し重い。

 誰かが、すぐ横で椅子を引く音がした。


「……クロト?」


 低く、掠れた声。

 クロトは視線だけ動かす。

 魔導士長レフランが目を見開いてクロトを覗き込んでいた。


「レフラン様……」


 クロトは体を起こそうとするが、うまく力が入らない。


「気にしなくてよい」


 レフランは静かにそう言って、クロトを制止した。

 クロトが寝かされているのは寝台ではなく、魔法陣の上だった。


「三週間も眠っていたのだぞ」

「三週間!?」


 クロトはぎょっと目を剥く。


「無理もない、回復魔導も使わず全魔力と聖力を使い果たしたのだ。精神にも肉体にも負担がかかるに決まっている」


 まるで見ていたような話ぶり。


「目覚めるまでは魔法陣の上で魔力を安定させていた。寝台を用意させよう、身体を休めると良い」

「レフラン様――私、魔力が……」


 口に出して、改めて喪失感に苛まれた。

 今まで血を吐く思いで習得したものが、瞬時に消えた。

 後悔はなかった。

 でも、心許なかった。


 涙が出そうになり、クロトは慌てて瞬きした。


「もう、最高位ではいられなくなってしまいました」


 涙を誤魔化すため、自嘲するかのように言ったクロトにレフランは穏やかな視線を送る。


「その話はあとでにしよう」


 体調を鑑みてくださっている。

 それが伝わり、クロトは唇を噛んだ。


 遠くで、鐘の音が鳴った。

 重く澄んだ響きが、石造りの壁を伝って微かに揺れる。


 鐘の音を押し除けるように、窓の外から歓声が押し寄せてくる。


 万雷の拍手。

 高らかなファンファーレ。

 石畳を打つ蹄の音。


 祝福の波が、王宮を揺らしていた。


 割れるような歓声。

 名を呼ぶ声。


 何度も、何度も。

 グリズリッド。

 その人の名を。


 その響きが、白い天井に反射する。

 クロトは立ちあがることもできないまま、静かに目を閉じ、再び意識を手放した。

 


 だんだん近づく硬質な足音がクロトを呼び起こした。

 近衛の制止する声が一瞬聞こえたが、すぐに消える。


 扉が開く音がし、そちらへ目だけ動かすと、そこに立っていたのは戴冠の正装を纏ったままの男だった。


 金糸の刺繍の入った重そうな外套に、まだ外していない冠。

 逆光で黒く塗りつぶされているが、誰が来たのかすぐに分かった。


「体調は?」


 鼻にかかった響きのある声。

 

「殿下……」

「ああ」


 グリズリッドは短く言い、頷く。

 クロトは寝台の上に身を起こし、部屋の中に入るよう促した。


「戴冠式は……」


 と言いかけて、やめる。


「終わった」

 

 クロトはすこし俯き、すぐに顔を上げる。


「おめでとうございます。……王太子殿下」


 グリズリッドは息を吐く。


「やめてくれ」


 そして居心地悪そうに眉を寄せた。


「俺は、別に変わらない」


 クロトは小さく微笑む。


「……そう、ですね」


 変わったのは――立つ場所だ。

 クロトも、グリズリッドも。



 彼の右手の甲に、淡く残る白の紋様が見えた。

 自分の中にあった力の痕跡を見て、ぼんやり考える。


 聖力を持った王太子。

 ゆくゆくは聖王となるのだろうか。

 

「それで、体調は?」


 グリズリッドはクロトの側に腰を下ろし、自然な所作で頬に手を伸ばす。


「あ、はい。魔力は安定して、身体はまだ……動かせそうもありません」


 クロトは段々いたたまれなくなってきて、おずおずと口を開く。


「あの、私たちの婚約って……」

「……そう言えば、破棄するって言ってたな」


 死闘の際、怒りながらクロトは婚約破棄を宣言した。


「あれは……なんだかもう頭に来て」

「あんなに大きな声、出せるんだな」

「完全にキレてましたので」


 クロトは遠い目をする。


「……私、中級魔導士程度の力しか戻っていませんよ」


 そして目を閉じる。


「だからなんだ」


 グリズリッドは静かに問う。


「……もう、お役に立てませんよ」

「役に立たないから必要ないという考えはやめてくれ」


 グリズリッドは食い気味に言った。


「あなたの隣にいてもいいんですか?」


 問うた声が震える。


 グリズリッドは困ったように眉を下げて笑ってから、少し考えるように眼球だけ横に動かす。

 そして、改めてクロトを見た。


「隣にいてほしい」


 グリズリッドはクロトの頬に触れていた手を、そっと顎へ滑らせる。


「俺に必要なのは、聖女でも最高位魔導士でもない」

 

 クロトは息を呑む。

 泣くつもりはないのに、涙が止まらない。


「だって……本当に何もない」


 役に立たないのなら、価値がない。

 クロトとグリズリッドが育った世界は、そういう世界だった。

 

 グリズリッドの指が、わずかに止まる。

 触れてしまえば、もう引き返せない。


 それでも、そっと唇が重なった。

 確かめるような口付けに、クロトは応える。


「泣くのは、俺の前だけにして」


 クロトは泣きながら笑う。


「前は、泣くなって言ってた気がします」


 グリズリッドは首を傾げる。


「そうだったか?」


 そして、ちょっと考える仕草を見せた。


「跪いて言ったほうが良かったか」

「あ……! 後でやり直してください」


 いつもの軽口を言い合って、どちらともなく再び唇を合わせた。

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