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第六十五話 死戻 ー帰る場所ー

 指の腹に彼女の頬の冷たさだけが残った。

 それを、握りしめる。

 事実が突きつけられた。


 彼女が救った命で、彼女のいない世界を生きなくてはならない。


 泣く資格はない。

 なのに、情けないことに涙は止まらない。


◇◇


 冷たい床の上で、クロトはゆっくりと意識の混濁から這い出した。

 薄く目を開けると、視界が滲んでいる。

 その歪みの中心で、見たこともないような顔で泣いているグリズリッドが見えた。

 その背後では、フェイも、あの軽薄なレイドまでもが隠そうともせずに涙を流している。


(みんな……気づかない……)


 喉がからからに干上がっていて、うまく声が出せない。

 肺に空気を送り込み、何度か言葉を紡ごうと試みるが、唇の間から小さく吐息が漏れるだけだった。

 

 三人は絶望の淵に沈み込んでいて、クロトのささやかな蘇生に気づく様子は微塵もない。

 

「……あのー」

 

 ようやく、掠れた声が空気に乗った。

 けれど全身を襲う激痛のせいで、それはあまりに弱々しく、誰の耳にも届かない。

 

「もしもーし……」

 

 精一杯の声を出すと、三人が一瞬、彫像のように動きを止めた。

 顔を見合わせ、それから弾かれたように、まるで信じられないものを見る目でクロトに顔を向ける。

 

 幽霊でも見たかのように固まっている3人の男を、クロトはゆっくりと見回す。

 

「ただいま……死に戻って来てしまいました」

 

 葬式みたいな空気に耐えられず、微かに笑ってみせる。

 

「――は?」

 

 三人が一様に、険しく眉を顰めた。

 グリズリッドの顔が、ゆっくりと歪む。


「……クロト」


 震えた声で名前を呼んで、そっとクロトの頬に触れる。

 頬に熱が戻っている。


「青」


 彼の瞳を見たクロトは小さく息を吐く。


「よかった……」


 頬に触れた手が、今度は存在を確かめるように少しずつ位置を変えてぺたぺたとクロトの顔を弄る。


「生きてる……?」


 グリズリッドはようやく、絞り出すような声でそう言った。

 

「多分?」

 

 無責任に言うと、途端に彼の瞳に鋭い光が戻った。

 

「多分とは何だ!」

 

 至近距離で怒鳴られ、びくっと肩が跳ねる。

 

「いたたたたたたた!」


 衝動で身体が悲鳴をあげて軋む。

 外側だけ綺麗にされたのだろう。


「フェイ……くん……仕事、雑……」

「フェイ殿! 回復魔導を早く!」


 今度は察したレイドが怒鳴る。


「だ、だって……完全に死んでたから…… 」

 

 フェイは金魚のように口をぱくぱくさせて、慌ててクロトに回復魔導を与えた。


「……まさか、生き返るとは思いませんでしたねえ」


 目尻に溜まった涙を人差し指で拭いながら、レイドはいつもの調子を装ってクロトの頭を撫でる。

 その掌は微かに震えていた。

 

「何が、起きたかと言いますと」


 回復魔導を受けながら、クロトは一度ゆっくり瞬きをして口を開く。


「死後の世界っぽいところに、白い野原がありまして……」

「そんな説明は後でいい!」


 グリズリッドがクロトを抱き起こす。

 さっきまで壊れ物みたいに扱ってたのに、今はものすごい力で抱き締められる。


「ぐえ」


 蛙が踏み潰されたみたいな声が出る。


「二度と死ぬな」


 人は必ず死ぬ。

 違うのは、早いか遅いかだけ。


「無茶言わないで」


 笑いそうになって、クロトははたと止まる。

 グリズリッドの肩が震えている。

 クロトはぽんぽん、と彼の広い肩を子どもを寝かしつけるみたいに軽く叩いた。


「……善処します」


 その言葉を聞いてから、グリズリッドは一度息を吐く。


「……ナシェルは?」


 クロトの耳元で問う。


「私を救って、行ってしまいました」


 最後だと覚悟したはずの体温を再び感じたクロトは、目を閉じる。


「ちゃんと、行くべきところへ」


 ナシェルは最後、笑っていた。


「そうか」


 グリズリッドは静かに目を伏せる。

 長いまつ毛が頬に影を落とした。


「あの、それと」


 クロトはゆっくりと息を吸う。


「たぶん私、聖女ではなくなりました」

「……は?」


 三人の男たちは、再び一様に眉を顰めて声を揃えた。

 

「聖力全部殿下に置いてきちゃったので。……殿下は男性なので聖女? ではないと思うし」


 一瞬、場に冷ややかな静寂が落ちる。

 フェイが震え声で突っ込みを入れた。

 

「……それ、国家レベルの大事ですよ。そんな、家の鍵失くしたみたいなノリで言わないでください」

 

 グリズリッドが、ゆっくりとクロトの頬に額を押しつける。


「もうどうでもいい……なんでもいい」


 その声は、震えていて、まるで迷子の子どものようだった。

 胸がぎゅっと締め付けられる。

 クロトはそっと、彼の重厚な礼装の裾を掴んだ。

 

「……また会えて嬉しいです、グリズリッド様」

 

 彼の耳元で、今度ははっきりと届くように囁く。

 

「ただいま、です」

 

 その言葉は、祈りのように静寂を溶かした。

 

「……おかえり」

 

 グリズリッドは呟くようにそう言って、クロトの身体を強く抱き締めた。

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