第六十四話 奇跡 ー最後の会話ー
目を開けると、クロトは白濁した光に包まれていた。
あたりは一面、白。
上下も、遠近もない、やわらかな空間。
あれ、とクロトは首を捻る。
さっき、この景色を見た気がする。
既視感とともに、胸の奥が静かに疼いた。
「クロト」
金の鈴を転がしたような声音が、おぼろげな意識を引き戻す。
「ナシェル」
互いの名前を呼び合った瞬間、
白い世界に輪郭が生まれた。
淡い光の中に、ナシェルが立っている。
もう、黒い影はまとっていなかった。
「殿下が、貴女を浄化したんですね」
ナシェルは小さく頷く。
「クロトの力でね」
その言葉に、クロトは寂しく笑う。
胸の奥が、ほんの少し温かい。
「怒ってますか?」
私のことを。
ナシェルは首を横に振る。
「クロトこそ、怒ってるよね?」
クロトも首を横に振った。
「私は、貴方を救えなかった。気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
ナシェルは一瞬、目を見開く。
それから、ふっと笑った。
銀の瞳から、涙がこぼれる。
白い世界に、雫は落ちない。
ただ、光の粒となって消えた。
「ねえ、クロト。リズのどこが好き?」
唐突な問いに、クロトは少し考える。
どこが好きかなど、考えたことがなかった。
「そうですね、どこですかね。かっこつけてるのに、たまにうまくいかないところとか」
「全然見てなさそうなのに、よく見てくれてるところとか」
「いつも言葉は足りないのに、欲しい言葉をくれるところとか」
少し照れて、付け足す。
「お顔も好きですよ」
ナシェルがくすりと笑う。
「わかるわ」
その笑顔は、もう嫉妬も執着もなく、
ただ静かだった。
「いいなあ。クロトとリズは、長く時間を共有したのね」
素直な言葉に、クロトは言葉を詰まらせる。
「わたしね。聖女候補になる前は、ランベリーって街で育ったの」
白の中に、かすかな色が滲む。
石畳。
小さな家。
笑う両親。
「行きましたよ。ナシェルの石像がありました」
ナシェルは目を丸くしてから笑う。
「貧しかったけど、優しい両親に恵まれて、幸せだった。……でもね」
光景が揺らぐ。
「わたし、頭も良くないし、魔力も弱い。わたしにはなんにも無いって思ってた」
「だから、聖女候補に選ばれるなんて、夢みたいで」
「やっと自分が主人公の物語が始まったんだって」
白い世界が少しだけ、冷たくなる。
「礼拝堂でクロトと会って気づいた。あなたは特別だって。みんなそう言ってたね。でも、みんなとはちょっと違うのよ」
ナシェルは、まっすぐ私を見る。
「あなたは特別に――眩しかった。わたしはそんなあなたとお友達になれて、嬉しかったの」
ナシェルは視線を落とす。
「お友達だと思ってたのは、わたしだけかも知れないけど」
寂しげな笑みに、クロトは首を横に振る。
「私はナシェルを友人だと思っていますよ。これからも」
ナシェルの表情が、花が綻ぶように和らぐ。
「……嬉しい」
少しの沈黙。
やがてナシェルが天を見上げる。
「そろそろ、行かなくちゃ」
そして再び目線をクロトに戻すと、ナシェルはそっとクロトの手を両手で取った。
「クロト。あなたを元に戻す方法がひとつある」
その言葉に胸がざわめく。
「あなたの失われた魂。わたしの魂を使って復元する」
白い空間が、かすかに震える。
「でも」
首を横に振ったクロトに、ナシェルは寂しそうに笑った。
「どうせ、わたしの魂は輪廻の輪から外れてる。……転生しても、人間には戻れない、でしょ?」
ナシェルは花束のように微笑む。
銀色の瞳に涙を浮かべて。
「クロトと同じところには、もう二度と行けない」
そこにもう迷いはなかった。
「わたしができるのは、クロトをリズの元へ戻すこと」
手を握る力がわずかに強くなる。
「わたしの罪を、すこしでも償わせて欲しいの」
「……ナシェル」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「ありがとう」
ナシェルは一歩、近づく。
指先が、クロトの胸部に触れる。
温かい。
「……クロト」
金の鈴のような声が、最後に震えた。
「じゃあね」
白い世界が、光を増す。
ナシェルの輪郭が、粒子になってほどけていく。
クロトは叫ぼうとした。
でも声は出ない。
代わりに、胸の奥で、何かが再び灯る。
白い世界の向こうで。
誰かに名前を呼ばれた。
低く、少し鼻にかかったよく響く声。
その声の主を脳裏に浮かべたとき――
光が、弾けた。




