第六十三話 聖剣 ー幻影と共にー
黒い影が一斉に迫る。
地を這い、壁を伝い、天井から滴る闇。
悲鳴のような音が地下神殿を満たす。
グリズリッドは一歩、踏み出した。
白銀の剣が静かに光る。
――私は魔導士であるべきだと思います。
聖女選出の儀で初めて会ったときのクロトの姿と声が脳裏に蘇る。
凛とした立ち姿、涼やかな声音。
動かない表情、そして揺るがない意志。
影が牙を剥き、腕を伸ばす。
速い。
だが。
剣を振るう。
閃光が疾る。
白が、黒を裂いた。
――私には、魔導しかなかったんです。
彼女はそれを意地だと言った。
断たれた影は霧のように崩れ、音もなく消える。
だが次の瞬間、背後で、黒い腕が足に絡みつく。
冷たい。
骨の奥まで凍るような闇。
視界の端で、クロトの姿が揺れる。
残像のようにちらつくのは戦う姿ばかりだった。
剣を逆手に持ち替え、足元へ突き立てる。
白光が爆ぜた。
闇が絶叫を上げて砕け散る。
「どうして……!」
ナシェルの声が震える。
「どうしてそんな顔で戦えるの?」
グリズリッドは答えない。
影が再び群れを成す。
今度は槍のように尖り、一直線に突き出される。
剣を横に払う。
白い軌跡が弧を描く。
――いつも言葉が足りないんですよ。
最後の戦闘の会話、途中からちゃんと聞こえてた。
ずっと思ってたってなんだ。
最期までクロトはクロトだった。
いつも真面目な顔をしてすっとぼけたことを言う。
闇は触れた端から、音もなく崩壊していく。
それは燃えるのでも、砕けるのでもない。
ただ、存在を許されないかのように。
腕を掠める。
黒が肌を裂く。
熱い血が噴いた。
鋭く焼けるような痛みが疾る。
だが、その痛みが現実だ。
生きている証だ。
グリズリッドは踏み込む。
影の中心へ。
ナシェルの目前まで。
「やめて」
銀の瞳が揺れる。
黒い陽炎が荒れ狂う。
グリズリッドは剣を構える。
白銀の剣は呼応するかのように光る。
――好きですよ。
血を吐きながら、絞り出すように彼女は言った。
立っているのが不思議なほどの吐血と、身体の出血。
それでも青の瞳は、すこしも絶望していなかった。
揺らがない精神。
それが彼女の本当の強さ。
「俺もだ」
グリズリッドは呟く。
「やめて、リズ」
首を横に降り、涙を流して懇願するナシェル。
グリズリッドは静かに告げる。
「俺はもう逃げない」
白銀の剣が、ひときわ強く脈打つ。
――あなたと出会えて、幸せでした。
クロトの心臓のように。
「ナシェル……さよならだ」
怒りもない。
責める気もない。
あるのは、終わらせる意志だけ。
「そんな目で見ないで」
ナシェルが笑う。
歪んだ、寂しい笑み。
「お前は悪くない」
グリズリッドは踏み込み剣を振り下ろす。
白の軌跡が空間を裂いた。
ナシェルが黒魔導で受け止める。
衝撃波が神殿を揺らす。
だが。
黒は、もう以前の力を持たない。
契約陣は崩れた。
支えは消えた。
「俺は」
一閃。
「お前に救われた」
黒魔導が砕け散る。
そして、ナシェルの腹部を魔剣で貫いた。
すでに亡くなっているナシェルの体からは血が出ない。
「ありがとう、ナシェ」
グリズリッドは剣を引き抜き、一度彼女を抱き締める。
「でも、お前の思いには答えられない」
ナシェルは花が綻ぶように微笑む。
その声は、不思議なほど穏やかだった。
ナシェルの身体を貫いていた闇が、音もなく剥がれ落ちる。
黒い靄が、霧のように溶ける。
「……ああ」
ナシェルが目を細める。
「あったかい」
ただ剣を支えたまま、彼女を見つめる。
白光が広がる。
契約の残滓が砕ける。
ナシェルの銀の瞳から、濁りが消えていく。
「ねえ、リズ」
小さく笑って、ナシェルはグリズリッドの頬に触れようと手を伸ばす
「もし、わたしが死んでなかったら――選んでくれてた?」
グリズリッドはその手を取らない。
「……仮定の話は苦手だ」
いつか聞いた言葉が、口をついた。
グリズリッドの頬にナシェルの指が届く寸前で。
光が弾けた。
眩い白。
ナシェルの身体から、最後の黒が消える。
そして。
光に解けて消えた。
グリズリッドの手の中で、白銀の剣が静かに消える。
静かに息を吐く。
そして、彼女の元へ急いだ。
「……クロト」
クロトは手を組んで横たわっていた。
レイドがそうしたのだろう。
グリズリッドは冷えきった彼女の頬を一度撫でた。
「帰ろう」
声が、震えた。
そう言ったのに、誰も動けなかった。




