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第六十二話 叱咤 ー立ち上がれー

 地下神殿は、完全に静まり返っていた。

 闇も、光も、もうない。


 さっきまで響いていた衝撃の残響だけが、耳鳴りのようにこびりついている。


 グリズリッドはクロトを抱き締める。


 強く。

 壊れそうなほど、強く。


「殿下、力を緩めて」


 レイドの声が遠い。


「殿下、壊れてしまいます!」

「殿下……」


 フェイの声が震えている。


「クロト様は……戻りません……」


 フェイは菫色の瞳いっぱいに涙を浮かべ、祈るように手を翳す。


 グリズリッドがつけた傷。

 裂けた衣服。

 血に濡れた肌。


 それらは淡い光に包まれ、静かに浄化されていく。


 白桃のような滑らかな肌が戻る。

 乱れた白金の髪が整う。

 まるで、静かに眠っているかのようだった。


 魂は、戻らない。

 分かっている。


 一番、分かっているから。

 認めたくない。


 グリズリッドはゆっくりと彼女の顔を見下ろす。


 閉じられた瞼。

 影を落とす長い睫毛。

 人形のように整った顔立ち。


 もう二度と、空のような青の瞳は睨まない。

 もう二度と、口答えしない唇。

 もう二度と、何も触れることのない指先。


 胸の奥で、何かが壊れる音がした。

 彼女を抱えながら、静かに膝をつく。


「……俺のせいだ」


 呟きは石に吸い込まれていく。


「俺が、弱かったから」


 闇に堕ちたのも、それを選んだのも、考えるのを放棄したのも、自分自身。


 彼女は、グリズリッドを止めるために命を燃やした。


「いつだってお前は、正しい」


 また、守られてしまった。

 生かされてしまった。


「お前の理想に相応しい自分でいたかった」


 震える手で彼女の指を握る。

 折れてしまいそうな細い手は、急速に冷えていく。

 さっきまで、熱を帯びていたのに。

 グリズリッドの体温だけが、虚しく移っていく。

 

 握り返してくれることは、ない。


「……グリズリッド」


 レイドがグリズリッドの肩を掴む。

 涙が、顎から零れ落ちる。


「立て、グリズリッド」


 グリズリッドは動かない。


「立てと言っている!」


 レイドは胸ぐらを掴んだ。


 この男のそんな必死な声、ひさしぶりに聞いたな。

 グリズリッドは泣き濡れる鳶色の瞳を見つめながらおぼろげにそう思う。

 いつからか、レイドは何かを誤魔化すようにへらへら笑って軽口を言うようになった。


 いや、いつからかはっきりと覚えている。

 ――グリズリッドに負けて、彼が剣を置いたときから。


「クロト殿が命を賭けたのは――お前を生かすためだ」


 血を吐くような声音でレイドは言う。

 

「知らないだろ? お前がいなくなって、彼女は取り乱して泣いた」

 

 レイドは膝を折り、グリズリッドの両肩を掴んだ。


「あの、クロト殿がだ。どんな様子だったか、お前に想像できるか?」


 その声音と肩を掴む手は震えている。


「すぐに普段通りに振る舞われ、お前の代わりに騎士団をここまで導かれた。……ご立派だった」


 レイドは一度俯く。


「クロト殿に申し訳ないと思うなら立て」


 そして叫ぶ。


「立て、動け!」


 レイドの鳶色の瞳がグリズリッドを真っ直ぐ射抜いた。


「最後まで戦え、グリズリッド!!」


 


 胸の奥が軋む。

 叫びたい。

 壊れたい。

 全部投げ捨ててしまいたい。

 

 だが。


 グリズリッドはいつものように不機嫌に眉を顰めて、レイドを睨んだ。


「――うるさい。わかってる」


 小さな声だがはっきりと言うと、ゆっくりとクロトを床に横たえた。


 指先が離れる。

 それだけで、胸が裂ける。


 ——抱きしめられたあの瞬間、彼女は確かに薄く微笑んでいた。


 自分を置いていく顔をして。


「レイド、クロトを守れ」

「フェイ、援護しろ」


 立ち上がる。

 足が震える。

 眩暈がする。

 

 それでも、立つ。

 右手に力を込める。

 胸の奥から、何かが溢れ出す。


 白い光。

 それは眩しいが、目を射ることはない。

 やがて光は形を成す。


 ――剣。


 白銀の刃が、静かにそこにあった。


「これは……」


 フェイが息を呑む。


「……クロト様の聖力です!」


 グリズリッドは剣を見る。

 温かい。


 まだ、ここにある。

 彼女がグリズリッドに託したもの。

 

 こんなものを、受け取っていいはずがないのに。

 ……なのに、離せない。

 

 


 その時。


「ねえリズ、なんで傷ついた顔してるの?」


 ざり、と破片を踏む音が、やけに大きく響いた。


「リズが殺したのに?」


 心底不思議そうな顔で首を傾げて、ナシェルはぱちぱちと瞬きをした。


「あは。リズ、かわいそうでかわいいね……」


 くす、と可憐にナシェルは笑う。

 ナシェルの背後で黒い陽炎が揺らめき、闇が再び蠢く。


「でも」


 声が一段低くなる。


「クロトが死んでも、わたしのものにならないなら」


 いつものように小首を傾げてナシェルは言う。

 右手を上げると、無数の影が放たれた。


「もう、いらないや」

 


 守られて終わる男ではいられない。

 強く、正しい貴女に――相応しくあるために。


 グリズリッドは、白銀の剣を強く握り直す。

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