第六十一話 脆弱 ー魂の喪失ー
淡く、震えていた最後の魔法陣が、静かに消えた。
白光がゆっくりと散っていき、やがて地下神殿に音がなくなる。
黒い魔力は霧のように剥がれ落ち、床に溶けて消えた。
とす、と軽い衝撃が右肩に落ちた。
我に返ったグリズリッドは、小さく息を呑んでそちらへ目をやる。
クロトの額がグリズリッドの右肩に触れている。
彼女の手はだらりと力無く下がり、膝から力が抜けた身体がゆっくりと傾いだ。
慌ててグリズリッドは細い身体を両腕で抱き止める。
衝撃で、クロトの頭がグリズリッドの腕を滑っていく。
「クロト……?」
濃い血の匂いと、微かな砂糖菓子の様な甘い匂いが混ざる。
呼びかけに応答はない。
「クロト」
クロトを抱きしめたまま、グリズリッドは膝を折ってその場に座り込む。
そして、やけに静かな彼女の顔を見た。
傷だらけで血だらけの顔は紙のように白く、美しい蝋人形のようにまるで正気がない。
心臓が掴まれるような嫌な感覚を覚える。
グリズリッドは彼女の頬を手で包む。
そして親指で桜色の唇に触れた。
――息をしていない。
グリズリッドは目を見開く。
息が詰まって、うまく呼吸ができない。
「クロト!」
彼女を床に寝かせて、胸に耳を近づける。
鼓動も、ない。
「……クロト」
みるみる肩口の傷から赤い血の池が広がっていく。
「おい」
声が震える。
喉がひりつく。
指先が冷えていき、頭から血の気が引いた。
「冗談だろう」
立ち上がろうとして、膝から力が抜けた。
視界が歪む。
自分の鼓動が痛いほど大きく感じ、グリズリッドはゆっくりと床に手をつく。
彼女の流した血に触れると、指先が赤く染まった。
体が震え、呼吸が乱れた。
「どうして俺を助けた」
声が震える。
「誰がそんなことをしていいと言った」
視界がぼやける。
グリズリッドはクロトの細い両肩を掴んで揺らす。
がくがくとクロトの頭が揺さぶられて動く。
「起きろよ」
両手で細い肩を掴んだまま、はグリズリッドは項垂れた。
「起きろ、クロト・クロンクヴィスト」
涙が、彼女の鼻に、唇に、まつ毛に、落ちていく。
「殿下!」
「クロト様!」
二つの声が遠くで響く。
レイドと、フェイか。
グリズリッドは物言わぬ彼女を抱き上げて立ち上がる。
彼女の腕は自身の体の上を滑り、力無く空中で揺れた。
軽い。
あまりにも、軽い。
いつも生意気に言い返してきた女の身体が、こんなにも頼りない。
「殿下……一体、何が……」
レイドに腕を掴まれる。
グリズリッドはそれを振り払う。
「フェイ」
低い声が、自分でも驚くほど冷たい。
頬に手を当てる。
確かに、温もりは残っている。
「フェイ殿! 何とかならないのか!」
レイドの声が震えている。
少年の足音が近づく。
息を呑んだフェイの顔は、みるみる青ざめていく。
「クロト様……」
菫色の瞳を見開き、フェイは絞り出すような声で彼女の名前を呼んだ。
そして緩く首を横に振り、掠れた声を再び絞り出す。
「……魂が、ありません」
フェイの言葉に世界が止まる。
「聖力も魔力も使い切ったからじゃない。自分の存在ごと――魂ごと燃やしてしまったんです」
意味が、分からない。
頭が理解を拒む。
「嘘だ」
グリズリッドは笑う。
乾いた音が喉から漏れる。
「そんなこと、あるはずがない」
彼女は聖女だ。
王国の最強の最高位魔導士の一人だ。
誰よりも強くて、しぶとくて、図々しくて。
冷淡で、口が減らず、まったくかわいげがない。
あんなに殺しても死ななそうな女が死ぬわけがない。
「殿下……」
レイドの手が肩に触れる。
振り払えない。
力が入らない。
グリズリッドは彼女の額に、自分の額を押し当てる。
冷えていく。
ゆっくりと。
「……俺だって」
声が砕ける。
「まだ何も、言っていない」
必要だと。
側にいろと。
何一つ。
伝えていない。
伝える前に、逃げてしまったから。
貴女の正しさに逃げてしまった。
胸が裂ける。
叫びが込み上げる。
だが声にならない。
ただ、涙だけが落ちる。
血と混ざって、床に広がる。
地下神殿は、完全に静まり返っていた。
ただ一つ、彼の呼吸だけを残して。




