第五十四話 聖地 ー奪還作戦ー
「……状況を整理します」
鼻声で、ところどころ鼻を啜りながらクロトは口を開く。
「夜営地に殿下の遺体はありませんでした。血痕も、見張りの兵士のものしか見つかっていない」
レイドとフェイが俯く。
「となれば、連れ去られた可能性が高い。ならば、生存している可能性も高いと考えます」
クロトは、二人を真っ直ぐ見た。
「いずれにしろ、北の大地――聖地エッダを目指すべきです」
静まり返った天幕の中、クロトの声だけが響く。
地図の上で、指を北へ滑らせる。
「すみません、黒魔導の気配に気づいていながら……迂闊でした」
フェイは悔しそうに唇を噛んだ。
クロトは首を横に振る。
「いえ、護衛を緩めたのは私も一緒です」
クロトは一瞬だけ目を伏せ、それでも続けた。
「聖地エッダは古い魔力の溜まり場です。結界も多いでしょう。転移陣が使われたなら、あそこに痕跡が残る可能性は高い」
クロトは続ける。
「護衛の騎士は一撃で首を落とされていました。抵抗の形跡はほぼない。奇襲か、もしくは強力な拘束魔術」
妙に頭が冴えていた。
感情が削ぎ落とされ、必要なものだけが残っているような感覚だ。
「時間が経てば経つほど不利になります」
顔を上げる。
「殿下は、生きている」
そして、断言した。
願望ではなく、前提として。
「救出を前提に動きます。最短経路で聖地へ。少数精鋭。追跡術式は私が組みます」
天幕の中の空気が、変わる。
さきほどまでの『失踪』が、『奪還作戦』に切り替わる。
レイドがゆっくりと頷いた。
「……承知しました。クロト殿を中心に編成し直しましょう」
フェイは静かに言う。
「僕も行きます」
クロトは小さく息を吐く。
「出発は一刻後。準備しましょう」
天幕を出る直前、レイドがふと呼び止めた。
「クロト殿」
クロトは黙って振り向く。
「……大丈夫ですか」
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ胸が痛んだ。
あなたが私を選ばなくてもいい。
それでも――生きていてほしい。
クロトは頷き、まっすぐ答える。
「もちろん、大丈夫です。急ぎましょう」
クロトとレイドとフェイ、そして騎士数人で再編成された部隊は、北の山を登りエッダを目指した。
北へ進むにつれ、森の様子は変わっていった。
鳥の声が減り、獣の気配が遠のく。
踏みしめる落ち葉の音だけがやけに大きい。
風は吹いているはずなのに、枝葉はほとんど揺れない。
「……静かすぎる」
騎士の一人が小声で呟いた。
レイドが視線だけで制する。
「フェイ君、どう?」
か細い少年に山歩きはきついだろう。
呼吸を乱しながら、フェイは答える。
「魔力が重くて、濃いというより、淀んでいます。古い魔力と別の――たぶん、黒魔導の気配も、感じます」
クロトは目を細める。
「近いです」
フェイが告げると、全員の足取りがさらに静まった。
やがて、木々の密度が急に薄くなり、光が差し込む。
そして。
森は、唐突に途切れた。
鬱蒼と生い茂っていた木々が、ある一点を境に円形に退いている。
そこだけが、異様に静かだった。
足を踏み入れてはいけない、と本能が告げている。
風も、鳥の声も、届かない。
地面は白く乾いた石で覆われ、苔ひとつ生えていない。
まるで、森がそこを避けて成長したかのように。
「……ここが、聖地エッダ」
フェイが小さく呟く。
中央には、半ば崩れた石造りの遺跡。
円柱は風化し、ところどころ欠け落ちている。
だが、刻まれた紋様だけははっきりと残っていた。
幾何学的な魔法陣。
古代文字。
空気が違う。
濃い。
深い湖の底に立っているような、重い魔力。
クロトは一歩踏み出す。
靴底が石を踏む音が、やけに大きく響いた。
「結界が三重に張られています」
フェイが指先に魔力を集める。
「外側は古代式。内側は後付け――黒魔導です」
クロトの表情が険しくなる。
「フェイ君、他に何か読み取れますか?」
フェイは目を閉じ、魔力の流れを探る。
残滓。
転移の歪み。
そして――
菫色の目を見開く。
「……います」
声が低くなる。
「殿下の魔力反応が、微弱ですが内部に」
一瞬、全員の呼吸が止まった。
遺跡の中央、崩れた祭壇の奥。
地下へ続く、暗い石階段が口を開けている。
まるで、飲み込むように。
森は静まり返っていた。
聖地は、まだ神聖な顔を保っている。
けれど、その奥で。
何かが、確実に歪んでいる。
――殿下は、あの下にいる。




