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第五十三話 異変 ー残された熱ー

 ああ、これは夢だ。

 夢の中でふとそう気づくときがある。

 

 殿下のことを考えていたらなかなか寝付けなかったけど、ようやく眠れたらしい。


 夜の森の中だった。

 木々の中に、クロトはグリズリッドの背を見つける。


 殿下、そう声をかけようとしてクロトは息を呑む。

 彼に向けて出した右手が、虚しく空中で止まった。


 グリズリッドの向かいにいたのは、銀髪に薄い銀の瞳の乙女。

 背の高い彼にすっぽり隠れてしまうほど、小柄な体躯。

 

 心臓がずきりと音を立てて傷んだ。


 やはり、二人が並んでいるところを目の当たりにすると、苦しいものがある。


 ナシェルは時折笑ったり、悲しそうな顔をしたり、寂しげな顔をする。

 グリズリッドをずっと上目遣いで見上げ、たまに愛らしく小首を傾げる。


 なんて、くるくると目まぐるしく表情が変わるのだろう。

 思わず感心してしまう。

 そして、自分とは大違いなのだろうなと思う。

 二人が何の話をしているのかは聞こえない。


 ナシェルは、微笑んでグリズリッドに自分の手を出した。

 まるで、誘うように。


 クロトは息を呑む。


 殿下!!

 そう叫びたいのに、クロトの声は出ない。

 声帯は震えることなく、口がぱくぱくと無様に動いた。

 身体も動かない。

 手足は鉛のように重く、指一本すらも動かすことができなかった。


 その手を取ってはいけない!!

 直感だった。

 なのに声が出ない。


 動け。

 動け。

 

 動け!!


 焦るクロトを嘲笑うように、ナシェルと目が合う。


 その時。


 グリズリッドはナシェルの手を取った。


 息が詰まる。

 息が、できない。


 嘘だ。


 クロトは手を繋いで歩く二人の背を見送ることしかできなかった。




「殿下!!!」


 寝台の上で飛び起きた。

 本当に眠りながら息をするのを忘れていたのだろう。

 呼吸はひどく乱れ、肩と胸が激しく上下した。

 寝る前に着替えた魔導士のローブはぐっしょりと濡れて、身体に張り付いていた。


 クロトは呼吸が戻るのを待たずに、掛け布団を蹴り上げ立ち上がると、急いでテントを出た。


 あたりは夜明け前だった。

 空はまだ深い群青を保っているが、星のいくつかはすでに色を失いかけている。

 東の地平線だけが、わずかに灰色を帯びていた。


 夜営地は静まり返っている。


 焚き火は熾火となり、赤い芯がかすかに明滅しているだけだ。

 夜番の兵が、外套をきつく引き寄せる。

 吐く息は白く、すぐに闇に溶けた。


 露はまだ凍る寸前の冷たさで、草を踏めば靴底から湿り気が伝わる。

 遠くで梟が鳴き、森の奥で何か小動物が走る音がする。


 眠っている兵の呼吸は浅い。

 完全な休息ではない。

 誰もが、半ば意識を戦に置いたまま眠っている。


 世界が、ほんのわずかに息を止めている時間。


 その空気を切り裂くように、クロトは翔ける。


 北の大地は近い。

 朝の空気は冷たく、肺が凍りそうなほど痛い。

 でも、そんなことを気にしている場合ではなかった。


 あの夢は、ただの夢ではない。


 前に夢にナシェルが出てきたときとは違う。

 明らかな挑発。


 あれが本当なら……殿下は……


 弱気になった自分を鼓舞するように、クロトは強くかぶりを振った。


 間に合え。

 間に合え。


 間に合え!!




 グリズリッドのテントが見えてきた。


 入口を守っていたはずの騎士の姿が見えない。

 胸の奥が、ひやりと冷えた。


 護衛の騎士は入り口で倒れていた。

 その頭はない。

 首から上が綺麗に切られ、地面に大量の血が染み込んでいる。


「……殿下」


 クロトは急いで布を捲りあげ、グリズリッドを探す。

 寝台は、つい先ほどまで人が眠っていた形でへこみ、わずかな温もりを残している。

 でも、テントの中にグリズリッドの姿はない。


「嘘でしょう」


 クロトはなりふり構わず夜営地を駆け抜けた。


「殿下!」


 焚き火の近く。

 水場。

 作戦が書かれた掲示板の前。


「殿下!」


 異変に気づいた騎士たちが次々とテントから顔を出す。


「殿下!!」


 ――何を大声で喚いているんだ。ここだ。


 そう言ってくださいよ。

 余裕そうに、人を小馬鹿にしたような顔をして、見下ろしてくださいよ。


「グリズリッド様!!」


 両肩が強く引っ張られる。


「クロト殿! 落ち着いてください!」


 鳶色の瞳を見て、クロトは止まる。


「どうしたんですか?」


 見たこともない真剣な表情で、レイドは尋ねた。


「レイドさん……殿下が……」


 目から一筋涙が出た。


「殿下が、どこにも、いない……」


 一度出た涙は堰を切ったように流れ、止まらなくなった。

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