第四十九話 進軍 ー距離は遠くなるばかりー
「殿下!」
突然グリズリッドが軍馬の上で動かなくなった。
呼びかけても、反応がない。
焦点の合わない目に、覇気のない表情――
クロトは風魔導を用いてふわりと飛び、グリズリッドの馬の鞍に戻った。
「どうしたんですか?」
クロトはグリズリッドの手を取る。
指先が氷のように冷たい。
「……殿下?」
握った手を揺らしてみる。
「殿下!」
大声で名前を呼んだその瞬間、グリズリッドの瞳が戻った。
グリズリッドは緩慢な瞬きを何度かして、ひとつ息を吐いた。
「……大丈夫だ」
すこし掠れた声。
呼吸が僅かに乱れているように見えて、クロトは目を細めた。
「本当に大丈夫ですか? 野営を早めたほうが……」
「いや、進む」
即答だった。
凛と迷いのない声。
その速さが不自然に思えて、クロトは言い知れない不安を覚えた。
グリズリッドは手綱を握り直す。
「隊列を維持しろ。間隔はそのままだ」
声音はいつも通りだった。
騎士たちの返答が重なる。
けれどクロトは、握った手の冷たさを覚えている。
不安は拭えない。
でも、今は従うしかない。
「……承知しました」
クロトは一歩引いた。
だが、先ほどの数瞬――
あれは、何だったのか。
休憩の合図と同時に、クロトはレイドの馬から滑り降り、駆け出した。
「フェイ君」
クロトは低く呼びかける。
隣に並んだ少年が、菫色の瞳をこちらに向けた。
「魔力の乱れは? 黒魔導士の気配はありますか?」
「今は落ち着いています。ただ……」
クロトはフェイの二の句を待つ。
「霧に混ざって微かに黒魔導らしき気配を感じることがありました」
フェイの言葉にクロトは眉を顰める。
「嫌な感じがしますね」
やがて霧が薄れ、進軍は再開された。
グリズリッドの指示は的確だった。
先ほどの混乱を引きずる者はいない。
倒れた騎士は迅速に後方へ回され、隊列はすぐに立て直された。
「さすが殿下」
「判断が早い」
「黒魔導士が相手でも動じない」
小声ながら、賛辞があちこちから聞こえる。
騎士たちは誇らしげにグリズリッドを見つめている。
その視線の中で、グリズリッドは揺るぎない指揮官として立っている。
完璧な姿だ。
それは誇張ではない。
先ほどの号令は鮮やかだった。
恐怖に傾きかけた空気を、一息で立て直した。
あの響きの良い声は、人を従わせる。
あの広い背は、人を安心させる。
騎士たちの表情に、迷いはない。
グリズリッドが前を向いている限り、この隊は崩れないだろう。
けれど。
クロトだけは知っている。
名を呼んでも戻らなかった視線。
氷のような指先。
彼はいつも誰も頼らない。
一人で考え、一人で決め、一人で背負ってしまう。
誰も片棒を担がせてはもらえない。
クロトはいつも観察することくらいしかできない。
しかも、体裁を整えることが得意になってしまったのだろう彼は、すこし見ただけでは何を考えているのかさっぱりわからない。
いつも余裕そうにしているその姿が、本当の姿でなく無理をして作り上げているのだとしたら――彼はいつ、誰に本当の姿を見せるのだろう。
近づいたのに離れていく。
どんどん距離が開き、更に拒絶されてしまった。
クロトに今の彼は救えない。
何かを無理に押し込めているようにしか見えないのに、クロトは彼に踏み込めない。
名ばかりの婚約者だ。
ふと、銀髪に銀の瞳の彼女が脳裏に浮かぶ。
彼女なら、ふわりと優しく踏み込めるだろう。
彼女なら、気づかないふりをしてグリズリッドの懐に入り込めるだろう。
ナシェルなら。
素直な言葉でグリズリッドを癒すことができるだろう。
初めて、誰かが羨ましいと思った。
クロトは、夢の中でナシェルを呼んだグリズリッドの光にほどけそうな笑顔を思い出す。
王都で偶然数回出会っただけなのに、そこまで心を許せたということ。
その事実は、今まで考えないようにしてきた。
でも、今になって重くのしかかる。
(誰かを好きになるのは、幸せなだけではないのね)
ずきりと傷んだ胸を、クロトは静かに撫で下ろした。
やがて霧は薄れ、日が傾き始める。
野営の準備が進む中、グリズリッドは誰よりも静かだった。
焚き火の明かりが、その横顔を赤く照らす。
クロトは視線を落とす。
――今日は、眠れない気がする。




