第四十八話 指揮 ー静かなる侵食ー
山道に霧が降り始めていた。
朝の光はあるはずなのに、妙に霧が濃い。
騎士団は整然と進んでいる。
蹄の音、鎧の擦れる音、全てが規則正しく聞こえてくる。
なのに、どこからか一音だけ外れたような、不協和音のようなものがかすかに聞こえるような違和感があった。
不意に、誰かに名前を呼ばれた気がした。
グリズリッドははわずかに眉を寄せた。
前を向いたまま、呼吸を整える。
気のせいだ。
「……お疲れですか?」
後ろから涼しげな少年の声。
「別に」
グリズリッドは短く答える。
「なんだか、遅れているみたいなので」
言われて初めて、自分の馬の歩調がずれていたことに気づく。
無意識だった。
その瞬間、霧が濃くなった。
白の向こうに、影が立つ。
――かわいそうなリズ。
胸の奥がざわりと波立つ。
金の鈴が転ぶような声。
あの森で聞こえてきた声と同じだ。
それは甘く、柔らかく、懐かしい声だった。
たぶんナシェルで間違いない。
――わたしなら、あなたを不安にさせないのに。
握っていた手綱が、わずかに軋む。
俺を憐れむな。
「殿下?」
すぐさま異変を察知したフェイが声色を変えて話しかけてくる。
「……何か聞こえていますか?」
少年の菫色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見る。
「いや……」
確信が持てず、グリズリッドは緩く首を振る。
だが、菫色の視線は鋭い。
観察している。
――あなたの苦しみは、誰にもわからない。
声は、他の誰にも届いていない。
霧の中の影が、すうっと近づく。
――寂しさ、悲しさ、悔しさ、孤独、恐怖、そして渇望。
うるさい。
騎士が崩れ落ちた。
霧が一段濃くなる。
――ほら。
甘い声。
――守れない。
心臓が脈打つ。
だが。
「前列、馬を下げろ! 密集するな! 黒魔導士だ!」
声が霧を裂いた。
「倒れた者には触れるな! 間隔を取れ!」
騎士たちが即座に動く。
混乱が収まっていく。
――かっこいいね、リズ。
声に苛立つ。
「フェイ、魔力の流れを探れ」
視線は一瞬も揺らがない。
胸の奥はざわついている。
だが、顔には出さない。
――強いふり、しちゃうんだよね。
「黙れ」
小さく、低く呟いた。
誰にも聞こえない声で。
だが否定するほど、胸の奥の何かが疼く。
霧の奥で、魔力が一点に凝縮する。
フェイが弾かれたように顔を上げた。
「――来ます!」
その瞬間。
黒い靄が刃の形を取って、後方へ走る。
真っ直ぐに向かう先は――クロト。
心臓が強く鳴った。
視界が、狭まる。
――リズ、今度はどう?
甘い声が耳元で囁く。
「クロト、下がれ!」
思わず叫んだその時、不満気に眉根を寄せたクロトが口を開く。
「魔導、展開」
静かな声でそう言って、クロトは右手で素早く攻撃の印を切った。
白い光が閃き、瞬時に黒刃が霧散する。
正確無比なその攻撃は、無属性の魔導弾。
騎士たちが息を呑む。
やがて、口々に聖女様!と歓声が沸いた。
クロトはそれに振り返りも答えもしない。
まるで今の一撃など些事だと言わんばかりだ。
――やっぱりあれくらいじゃ、クロトは殺せないよね。
ナシェルが無邪気に笑う。
肝を冷やしたグリズリッドは、思わず奥歯を噛み締めた。
「ねえ、リズ」
いきなり近くなった声に驚き、グリズリッドは息を呑んであたりを見回す。
霧の中にはグリズリッドとナシェルしかいない。
馬も、騎士団もみんないなくなってしまった。
白いローブを見に纏ったナシェルは、小首を傾げながらグリズリッドを見上げて近づいてくる。
「クロトのことが好きなんでしょ?」
グリズリッドは思わず生唾を飲んだ。
ナシェルは甘く微笑む。
「なのに、好きなのはリズだけなのかな?」
小柄なナシェルは、爪先立ちになる。
ようやく彼女はグリズリッドの肩に額をつけた。
「クロトはずるいなあ。なんでも持ってるのに、リズまで取っちゃうなんて」
ナシェルの頭の重みを肩で感じながら、グリズリッドは動けない。
「あ、ねえリズ」
良いことを思いついた、とナシェルは自分の手のひらに拳を軽く打ちつけた。
「クロトがいなくなったら、わたしを選んでくれる?」
そしてまた小首を傾げてグリズリッドを見上げる。
「……ねえ」
ナシェルは目を細めて蕩けるように笑った。
「リズは、クロトに必要とされてる?」
言葉が出ない。
見透かすようにナシェルはくすりと笑った。
「ねえ、リズ」
白く細い指が、グリズリッドの心臓のあたりに触れる。
「わたしを選んで?」




