第四十話 敵襲 ー黒魔導士の誘いー
グリズリッドの肩に額を置いた姿勢のまま、クロトはしばらく黙っていた。
彼はその身体を抱きしめるでもなく、ただ待つ。
たぶん、これが彼の下した最善策なのだろう。
クロトは静かにグリズリッドを見上げる。
もう、空を思わせる明るい青の瞳に涙はない。
時折小さく鼻を鳴らし、声を詰まらせた。
「……さっきの、未遂のやつ。もう一度やり直してください」
グリズリッドはわずかに眉を顰める。
「馬車の中の一件のことか」
慎重に答えを探るグリズリッドに、クロトは一拍置いてこくりと縦に頷いた。
グリズリッドは小さく安堵の息を吐く。
「仰せのままに」
グリズリッドは、繊細なガラス細工に触れるようにそっとクロトに触れ、静かに口付けた。
まるで、婚礼の儀式のような口付け。
頭の奥で、小さく澄んだ金属の音がした気がした。
聖石と対峙したときに聞こえた音。
クロトの中で、一つの仮説が生まれた。
その直後。
――どん。
腹の底に響くような、鈍い衝撃。
王宮全体がわずかに揺れ、天井の装飾がかすかに軋む。
「……今のは」
グリズリッドが顔を上げるより早く、次の衝撃が来た。
――どん、どん。
今度は、はっきりと連続して。
遠くで、何かが砕ける音。
悲鳴にも似た声が、厚い壁をすり抜けて届いた。
「……結界が」
クロトは呟く。
次の瞬間。
――ぎい、と。
空気そのものが引き裂かれるような、不快な音が王都に響き渡った。
神殿の鐘が誰の手にも触れられないまま、狂ったように鳴り始める。
警鐘だ。
「敵襲!」
回廊の向こうで、騎士の叫び声が上がる。
窓の外が、暗くなった。
夕暮れでも、雲でもない。
黒い――魔力の塊が、王都の上空を覆っていた。
ぞわり、と。
その“質”を感じ取った瞬間、クロトは息を呑んだ。
冷たく鋭い。
このまとわりつくような気配――どこかで。
――リズはわたしの話を聞いてくれて、わたしを受け止めてくれた。
クロトは記憶を辿る。
肩より上の位置で切り揃えた銀髪に銀の瞳の乙女が鮮やかに脳裏に浮かんだ。
――手に入れられないなら、わたし、リズを殺しちゃうかも知れない。
夢の中の彼女の言葉が脳裏に不吉に蘇る。
「殿下!」
息を呑んだクロトは、グリズリッドの手首を掴んで引き寄せ、即座に簡易の結界を張った。
その、刹那。
どん、と。
つい数瞬前、グリズリッドが立っていた場所で黒い爆炎が弾けた。
轟音と熱風。
そして衝撃が波となって回廊を薙ぎ払い、視界が一瞬、白に染まる。
「――っ!」
クロトとグリズリッドは爆風に煽られて吹っ飛び、床に体を打ちつけた。
「大丈夫ですか……」
クロトは顔を顰めながら尋ねる。
「ああ」
グリズリッドは低く呻きながら答えた。
次いで、遠くで連続する爆音。
王宮の外縁、防壁の一部が黒い魔導に穿たれ、粉々に吹き飛ぶのが見えた。
次々と防衛結界が叩かれていく。
クロトは咄嗟に結界を補強するために聖力を練るために祈るように指を組む。
聖力が――騒いでいる。
それに呼応するように、胸の奥の魔力が一斉に目を覚ました。
瓦礫が宙を舞い、炎が上がる。
人々が逃げ惑う小さな影が、遠目にもはっきりと分かった。
その中心。
黒い魔導の奔流の中に『一つの意志』を感じる。
空が、裂けた。
王都の上空、黒い魔力が渦を巻き始める。
明確な意志を持って、王都を中心に形を成しているかのように見えた。
黒い竜巻が、天と地を繋ぐ。
王都防衛結界が、触れた部分から悲鳴を上げるように歪んだ。
その瞬間。
竜巻の中心が、静止した。
暴風の只中に、不自然なほど穏やかな空間が生まれる。
そこに――
人影が見えた。
短い銀髪が、風に逆らうかのように静かに揺れる。
細い肢体。
白い肌。
そして、闇の中に浮かぶ銀の瞳。
身に纏うは聖女の白いローブ。
次の瞬間、ばさりと白のローブを翻す音と共に、その者は瞬時に二人のもとへ移動した。
音もなく床に足をつけ、相変わらず愛くるしく微笑む。
「ひさしぶりだね、会いたかった……リズ」
黒魔導士の正体は。
王都を襲う災厄の核は。
「ナシェ……ル」
グリズリッドは彼女の名を呟く。
最後の音はクロトを気遣って付け加えた。
ナシェルはくすくすと可憐に微笑む。
「リズったら、どうしてナシェって呼んでくれないの?」
甘い微笑みが急に絶える。
「……そんなにクロトが大事なの」
一段低い声で呟き、ナシェルの体は重さなどないかのようにふわりと軽やかに浮かぶ。
「どうして、王都を……」
クロトの問いに、ナシェルは再び微笑む。
「これは、わたしを殺した者たちへのほんの挨拶だよ」
ナシェルは小動物を思わせる仕草で小首を傾げる。
そして内緒話をするように、ナシェルは人差し指を口もとに立てた。
黒い竜巻が急激に収縮し、彼女の吐息交じりの囁きが風に溶ける。
「聖地エッダで待ってるね」
次の瞬間。
黒い竜巻は、音もなく霧散した。




