第三十五話 降臨祭
鐘の音が、遠くで鳴り終わった。
降臨祭当日。
空は抜けるように澄んでいる。
神殿の奥で待たされていたクロトは、神官の合図で歩き出した。
白いローブは思ったより重く、足元の感覚を奪う。
視界の端で揺れる光が、水晶の反射だと理解するまでに少し時間がかかった。
扉が開く。
クロトは先端に鈴のついた錫杖を握り直す。
一度目を閉じて、呼吸を整えてから目を開く。
――ざわり、と空気が変わった。
無数の視線と祈り。
期待と、熱。
全部が、肌に突き刺さる。
顔を上げない。
前だけを見る。
教え込まれた通りに、足を運ぶ。
聖泉は、朝の光を映して静まり返っていた。
先日と同じはずなのに、今日はまるで別物だ。
底の見えない水が、クロトを待っている。
縁に立つと、聖女の衣装を身に纏う自分の姿が水面に映った。
(相変わらず無愛想ね。ちっともかわいげがない。――でも私らしいわ)
いつもと変わらない無表情な自分の顔を見て、すこし気持ちが落ち着く。
息を吸う。
肺が冷たい。
一歩。
水面に足を下ろす瞬間、体が強張る。
沈む。
冷たい。
そう思っていた。
けれど。
足裏に伝わったのは、水ではなかった。
柔らかく、張り詰めた感触。
確かに、クロトを支えている。
――立っている。
水の上に。
どよめきが起こるのが、音ではなく振動として伝わってきた。
歓声。
祈り。
誰かが泣いている気配。
でも、不思議と頭は冷えていた。
ああ、と理解する。
(これで私は、もう戻れない)
水の上に立てるという事実が、
クロトを「聖女」に固定する。
クロトはゆっくりと、もう一歩踏み出した。
水面は揺れ、しかし崩れない。
舞は全部で八の型ある。
それを延々と繰り返す。
一週間で動きは体に叩き込んだ。
あとは、数字を頭で数えるだけ。
先ほどまで聞こえていた音が何も聞こえなくなる。
聞こえるのは、自分の呼吸のみ。
神の祝福を表す低い音の太鼓の音が響き渡る。
空気の振動に合わせて、水面がわずかに揺れた。
舞の合図だ。
クロトは両腕を上げて錫杖を天に掲げる。
初めの一番低い音の太鼓の次に、音の高さの違う太鼓が複数重なっていく。
笛の音の主旋律と共に、クロトは一の型を舞い始める。
余計なことは考えない。
体の動きに集中。
高らかに錫杖の鈴が鳴り響き、音楽の一部と化す。
徐々に音楽の速度は上がっていく。
その高揚と共に、クロトが動くと聖力が溢れて光の粒が舞う。
それはやがて水面を照らし、会場全体に広がっていった。
光の中心にいるクロトにはもはや何も見えない。
しかし動きは止めずに舞い続ける。
そのとき、ちかりと体の中で何かが鋭くきらめく。
違和感を覚えてクロトは眉をひそめた。
水面に足をつけると、聖泉がわずかに氷っていることに気付いた。
舞が進むに連れて、聖泉は水面から下へ下へと凍っていく。
これは、魔力だ。
これは水属性から変化した氷の魔導。
聖泉に反応して、クロトの中の魔力が溢れ出したのだろうか。
魔力は止めどなく溢れて、聖泉はそれに応えるかのように変化していく。
泉の水は氷の巨大な柱となって天へと徐々に伸びていく。
どんどん高くなっていく視界に、舞を続けたまま内心焦る。
これは、どうすれば良い。どう収めれば良い。
眼下にはクロトよりも焦っている教会の人間たちが見えた。
ぱきり、と音を立てて氷の勢いが止まる。
その瞬間。
胸の奥で、何かが静かに噛み合った。
暴れていた魔力が、すっと輪郭を取り戻す。
聖泉の奥で、別の波長が触れた気がした。
視線を上げる。
氷上の舞台に、もう一人の人間が降り立った。
琥珀色の髪に深い青の瞳の美青年は、華やかな笑顔を作って近寄ると、クロトの手を取り群衆へ向き直った。
彼がクロトの手に触れた瞬間、氷の柱の奥に走っていた魔力の流れがぴたりと止まった。
凍結ではない。
言語化するなら、これは――整列。
深い青の瞳がクロトを捉える。
クロトもまた、グリズリッドを呆然と見つめていた。
ふ、と一瞬だけ頬を緩ませたかと思うと、グリズリッドは民衆たちが座る席の方へ向き直った。
「聖力と魔力を併せ持つ、歴代最高の聖女に祝福を!」
一際大きな歓声が群衆たちから上がった。




