第三十三話 聖泉
次の講義は、神殿の最奥――「聖泉の間」で行われた。
重厚な石の扉が開いた瞬間、肌を刺すような冷気と共に、空気が一変する。
ひんやりとして、不純物を一切排除したかのような澄んだ気配が、薄いローブ越しにクロトの肌の上を滑った。
広大な水晶の床の中央には、完璧な円形を描く泉がある。
底が見えないほど透明な水は、鏡面のように静止し、音もなくそこを満たしていた。
クロトは促されるまま、その縁に立たされた。
背後には無表情な神官たちが並び、左右には冷徹な水晶の柱が守護者のようにそびえ立っている。
「こちらが、聖泉です」
案内役の年配の神官が、抑揚のない声で告げた。
「神が最初にこの地に祝福を降ろしたとされる始源の場所。そして、聖女の力が最も純粋な形で顕現する場でもあります」
水面はあまりに静かで、まるで硬質な硝子の塊のようだった。
クロトがおずおずと泉を覗き込むと、そこには底がなかった。ただひたすらに深い透明が続き、視線が吸い込まれていく。まるで、底知れぬ深淵が静かに口を開けて、獲物を待ち構えているような錯覚。
クロトは思わず、乾いた喉で生唾を飲み込んだ。
「本日は、降臨祭についてご説明します」
その事務的な言葉で、クロトの意識は現実に引き戻された。
「降臨祭は、我が国の威信を懸けた国家行事です。新たな聖女の存在を、広く民衆に知らしめるための最も大事な儀式です」
クロトは泉の淵を見つめたまま、その言葉を反芻する。
「聖女様には、当日――この聖泉の上で舞っていただきます」
さらりと、朝食の献立でも告げるかのような気軽さで言われた。
クロトは目を見張り、弾かれたように神官を凝視した。神官の目は、歩くことと同じくらい当然の行為を要求している色だった。
水の上で、舞う。
何を言っているのか。この、一歩踏み出せば沈んでしまうはずの水面で。
「聖泉は、真なる聖女を拒みません」
神官は淡々と、逃げ場のない事実だけを積み重ねていく。
水面に、自分の顔が映っていた。純白の聖衣に身を包みんだその姿は、まるで見知らぬ他人のように見えた。
「逆に言えば、聖女の器を持つ者ならば、聖泉の上に立つことができます。……証明していただけますか」
神官の一人が小さく顎で示した。
その横にいる銀髪の少年魔導士と目があった。
フェイは涼しい顔をして、ひとつ頷くだけだ。
拒絶など最初から想定されていない。意を決したクロトは聖泉の縁に爪先をかけ、もう一度視線を落とした。
水は相変わらず澄み渡り、波紋一つ立てずにクロトを映し出している。
一歩。
ただ足を前に出すだけ。理論上はそれだけのはずなのに、その数センチが果てしなく遠い。
魔導士としての本能が、足がすくむほどの恐怖を訴える。風の魔導さえ使えれば、体を浮かせて誤魔化すこともできる。だが今の彼女は、その力をも封じられていた。
クロトは、わずかに指先を握り込んだ。
意を決して、一度大きく肺を膨らませ、右足を踏み出す。
水の表面に足裏が触れる瞬間、刺すような冷たさと、そのまま沈んでいく落下の感覚を覚悟して、身を固めた。
けれど。
足裏に伝わってきたのは、液体の感触ではなかった。
柔らかく、しかし確かな抵抗。薄いゴムの膜、あるいは張り詰めた絹の上に乗ったような、奇妙な感触がクロトの重みを支えている。
水面が、足の形に合わせてわずかに歪む。
しかし、沈まない。
足裏に、魔力の波動を感じる。
信じられない思いで、左足も水面へと運んだ。
クロトは、水の上に立っていた。
ざわ、と背後で空気が揺れた。幾重にも重なる、神官たちの息を呑む気配。
だがクロトは振り返る余裕などなかった。腰は引け、両腕をわずかに広げてバランスを取りながら、必死に足元の現象を凝視し続ける。
水面には確かに、自分の足が乗っている。けれど、それは物理法則を無視した非現実的な光景だった。
水面に立ったまま、クロトは静かに、しかし荒い呼吸を整えた。
そして、一つ事実が確定する。
自分は、本物の「聖女」だということが。
「……適合を確認いたしました」
背後から聞こえた抑揚のない声。
「当日は、聖石とご対峙いただき、聖石との接続を強調することで聖女様のお力を強調させる演出を入れされていただきます」
その全く感情のない言い方がやけに頭にきて、クロトは初めてすこし振り返ると、神官を涙目で睨む。
「あの……」
そしておずおずと口を開く。
「私ダンスは絶望的なんですが……それで、降臨祭はいつなんでしょうか……」
間髪入れずに神官が答える。
「一週間後です」
クロトは、水の上で一度目を閉じて天を仰ぐ。
神官たちの隙間からフェイが笑いを噛み殺している顔が見えた。
明るい空を思わせる青の瞳が、菫色の瞳とぶつかる。
クロトはわずかに頬を膨らませて彼を睨んだ。




