第二十九話 選択 ー助けを求めてー
講義が終わると、神官たちは何事もなかったかのように散っていく。
クロトは、壁際で青ざめた顔をして茫然とする監視役の少年を見やる。
「どうか、しました?」
声をかけられたフェイがびくりと細い肩を揺らした。
神秘的な菫色の瞳が大きく見開く。
「……いえ」
目を逸らしたフェイは大股で歩き出し、クロトは黙ってその後に続いた。
廊下は白く、静かで、足音がやけに響いた。
水晶の壁に映る自分の姿が、他人のように見える。
いつもフェイはクロトより半歩後ろを歩き、彼女の背中に測るような視線を送っている。
今日はやけに早歩きでクロトよりも先を歩いていた。
「……あの。もしかして、バカなんですか?」
突然、前を歩くフェイが足を止めずに吐き捨てた。
「あんな風にサーディス様を煽って、本当に眠らされますよ?」
フェイの背中が、わずかに震えている。
「……僕は、見てきたんだ。逆らった奴らがどうなるか。代わりはいくらでもいるって、あいつらは本気で思ってる」
クロトは、少年の言葉の裏にある本物の恐怖に触れた気がした。
彼は怒っているのではない。恐怖で震えている。
「フェイ君」
名を呼ぶと、彼は一拍遅れて立ち止まった。
「私をバカ呼ばわりしたのは、生まれてこの方あなたが初めてです」
クロトは笑う。
「でも、あなたはちゃんと怖いことだと思える人なんですね」
フェイは目を細める。
「……何が言いたいんですか」
「教皇たちは、眠ることを休むと言い換えました。彼らにとって聖女は、さしずめ魔導具と同じようなものなのでしょう。でも、あなたは私を人間として見て、その終わりを危惧してくれました」
クロトは一歩、フェイに近づく。
「フェイ君。あなた自身が道具として扱われることに慣れてしまっているなら、せめて私をバカだと思うその感性だけは捨てないで。……あんな風に、誰かが壊れるのを当たり前だと思いたくないでしょう?」
フェイは震える拳を握りしめ、視線を床に落とした。その肩の力が、ふっと抜ける。
「……」
しばらく床を見つめていた菫の色の瞳は、ちらりとクロトに目線を送る。
「手首、大丈夫ですか」
問われたクロトは目を瞬く。
「ああ、はい」
クロトは右手を差し出す。
強く握られたはずの手首には、なんの跡も残っていなかった。
「魔導は誰かに教わったのですか?」
フェイはびくりと肩を震わせ、横を向く。
「ええ、まあ」
「……そうですか」
クロトはそれ以上踏み込まなかった。
再び歩き出す。
今度は、クロトが一歩前を行き、フェイが半歩遅れる。
「あなたは魔導士に向いていると思います」
クロトは前を向いたままフェイに言う。
「もしその気があれば、いつでも言ってください」
フェイは驚く。
「クロト様は……魔導士に戻られるおつもりなんですか?」
戻れるとでも、思っているのか。
そう問われ、クロトは苦く笑う。
「だって、誰でも良い仕事だってわかっちゃいましたからね」
肩をすくめる。
「私の無駄遣いです」
ぷは、とフェイは吹き出す。
笑った顔は年相応の少年そのものだった。
「確かに、そうかも知れません」
クロトは歩調を遅らせ、フェイの隣に並んだ。
「……ねえ、フェイ君」
そして青い瞳だけ動かして笑うフェイを見やる。
「なぜ聖女はみんな次々と亡くなるのでしょうか」
フェイが小さく息を呑んだのを、クロトは見逃さなかった。
フェイのような聖魔導士たちにとって、教会の存在は絶対なのだと思う。
だからこそ、教会に対して疑問を持たないように教育されてきたはずだ。
今回の聖女教育のように。
「……何かご存知ですか?」
しかしこの少年は、教会に疑問を持っていながら繋がれているように見える。最初から、自我を捨てきれていなかったのが証拠だ。
「前の聖女様も……その前の聖女様も……聖女になられて一年以内に亡くなりました」
一語一語、慎重に選ぶようにフェイは言葉を紡いでいく。
「必要なのか……大したことのない仕事なのか……僕には、判断できない……」
言葉が途切れ、足が止まる。
それに気づいたクロトも、足を止めて振り返る。
「でも、人が死に続ける制度が今もなお生きていることが、一番よくわかりません」
フェイは顔を上げてはっきりとした口調で言う。
菫色の瞳は揺れていた。
けれど、真っ直ぐにクロトを見据える。
「何かがおかしいと思ったら、思考を止めないことです」
クロトは、穏やかに言った。
「思考を止めたとき、人は大多数に飲まれ、個人はなくなってしまうと私は考えます」
フェイは、真剣な顔で耳を傾けた。
「何が行われているのか観察して、最善の選択を考えて」
クロトはそれだけ言って、また歩き出す。
フェイは今度はちゃんと半歩後ろについてくる。
でも、もう視線は測るものじゃない。
「……クロト様」
絞り出したような泣き出しそうな声。
クロトは立ち止まって、再び振り返る。
フェイはクロトを見つめたまま、ゆっくりと顔を歪めた。
長い沈黙の末、彼はやっと口を開く。
「――助けてください」
クロトは黙って口元に人差し指を当てると、彼を自室へいざなった。




