第二十六話 聖石
世界が裏返るような感覚に、思わず息を詰めた。
足元の感触が消え、代わりに内臓を掴まれるような浮遊感が全身を貫く。
移動魔導は、何度経験しても好きになれない。
まして今は、身体の奥に燻る熱がはっきりと脈を打っていた。
吐き気を催したクロトの肩を、誰かが掴む。
「大丈夫ですか? クロト様」
聞き慣れない声に、クロトは弾かれたように顔を上げた。
頭の中で期待した声の主ではなかったからだ。
ついさっきまで隣にいたグリズリッドの声も、熱も、シダーウッドの香りもしない。
クロトは、遅れて喪失感に苛まれた。
「大丈夫……です」
教皇は弓形に目を細めて満足そうに笑う。
「ようこそ神殿へ」
四方を囲むのは、石ではない。
天井も、壁も、柱さえも――すべてが巨大な水晶だった。
無色透明の結晶が折り重なり、どこから光が差しているのかわからないほど、空間そのものが光り輝いている。
息を吸うと、ひんやりと澄んだ空気が肺の奥まで染み渡った。
まるで、体内の不純物を勝手に選別されているような感覚だ。
足元に視線を落とすと、床もまた水晶でできていた。
半透明の結晶の向こう側に、自分の影が歪んで映る。
「美しいでしょう。この神殿に入れる人間は限られています」
教皇は「こちらへ」とクロトを促す。
「まずは体調を整えましょう」
話はそれからです、と教皇は微笑んだ。
「そう簡単に、治るもの、なのですか?」
クロトはやっと口を開く。
「先ほど申し上げましたが、貴女の身体の中では今、魔力と聖力が拮抗し、身体が悲鳴を上げている状態です」
歩きながら教皇は説明を続ける。
一歩踏み出すたび、足元の水晶が微かに鳴った。
鈴の音のように澄んでいるのに、いやに耳の奥に残る音だ。
「本当は魔力と聖力が混ざり合うのを待つのが良いのですが、そんな悠長なことをしていると貴女の肉体が持たないでしょう」
クロトは何度か頷く。
「貴女の魔力量は、はっきり申し上げて異常です。聖力もまた異常な量なのです」
水晶の回廊は、進むほどに光を増していく。
壁も、床も、天井も、すべてが透明な結晶で、境界が曖昧だ。
どこからどこまでが道で、どこからが壁なのか、感覚が狂いだす。
「聖石には多くの祝福があります。そのうちの一つが、鎮静です」
クロトの眉が顰められたのを、教皇は見逃さなかった。
「ご心配なく。聖石が、貴女の魔力と聖力を整えるということです」
やがて、回廊の突き当たりに辿り着いた。
そこには扉があった。
いや、扉と呼ぶにはあまりにも異様だった。
金属でも木でもない、一枚の巨大な水晶板。
中は曇っていて、向こう側は見えない。
「こちらが、水晶の間です」
教皇の声が、背後から響く。
「聖女が力と向き合うための場所」
クロトが一歩近づくと、水晶板が低く震えた。
触れてもいないのに、表面に波紋のような光が広がる。
「当然……拒絶反応はありませんね」
教皇は満足そうに頷いた。
教皇が手をかざすと、水晶板は音もなく左右に分かれた。
円形の空間の中央に、床から生えたような水晶の台座が見えた。
台座には、一際大きな水晶。
「これが、聖力の源……聖石と呼んでいる水晶です」
教皇はそう言ってクロトから視線を外し、背後に控えていた神官たちに軽く顎をしゃくった。
静かに、しかし寸分の狂いもなく動く。
白衣の神官たちは水晶の床に円を描くように配置につき、それぞれが手にした小さな水晶片を掲げた。
空気が、変わる。
淡く輝いていた神殿の光が、次第にクロトへと集まり始めた。
視界の端で、水晶の壁に刻まれた紋様がゆっくりと脈打つ。
「中央へ」
促されるまま一歩踏み出すと、足元の水晶がわずかに沈んだ。
水面を踏んだかのような感触に、思わず息を呑む。
「……っ」
聖石が強く光り、胸の奥で、熱が大きく跳ねた。
「怖がる必要はありません」
きん、と澄んだ音。
熱が、均される。
同時に、体内を駆け巡っていた魔力が、急激に押さえつけられるのを感じた。
これまで身体の内側を満たしていた力が、無理やり深いところへ沈められていく。
抗おうとした魔力が聖力に絡め取られ、水晶の床へと縫い止められる感覚。
代わりに、胸の奥から静かな光が広がった。
――軽い。
あれほど焼けつくようだった熱も、頭の痛みも、寒気も、遠のいていく。
「だいぶ楽になったのではないですか」
クロトは大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
確かに楽だ。信じられないほどに。
「ですが、完全な安定ではありません」
教皇は、まるでクロトの思考を読んだかのように続けた。
「貴女が聖力と魔力を調和し、使役できるかは貴女次第です」
その言葉に、クロトは顔を上げた。
教皇は微笑む。
「神殿の外で魔力を解放すれば、身体は壊れてしまうでしょう」
逃げ道を塞ぐような、静かな宣告だった。
「ですから――」
水晶の光が、もう一段階強まる。
「聖女としての在り方を、学んでいただく必要があります」
観念したクロトは、一度目を閉じ息を吐いた。「」




