第二十二話 聖痕
クロトとレイドは、二人して噴水の中で立ち尽くしていた。
足元の水は冷たいはずなのに、胸の奥だけが熱を持ったまま、落ち着く気配がない。
額に残る違和感に触れる勇気はなかった。
広場の入り口から、靴底が石畳を打つ硬質な音が響く。
規則正しく、迷いのない足取り。
琥珀色の髪をなびかせて現れたのはグリズリッドだった。
月明かりに照らされて、すらりとした肢体が浮かび上がる。
右手に見慣れない青い剣を手にしたまま。
戦闘の余韻がはっきりと残っている。
深い青の視線が、砕けた聖女像へ。
噴水の縁。
そして――水の中の、クロトたちへ向けられる。
グリズリッドは少し驚いた顔をしてから、走る速度を抑えてこちらへ近寄って来た。
「無事だったか」
安堵の表情を浮かべ、グリズリッドの表情は和らぐ。
「殿下も」
水の中でレイドが騎士の一礼を送った。
「水遊びでもしてたのか」
いつもの皮肉まじりの冗談に、レイドは乾いた笑いを浮かべて後頭部を掻いた。
珍しく大人しいクロトへの違和感だろうか、グリズリッドは改めて彼女を見やる。
「……それは」
殿下はクロトの額を見て、深い青の双眸を大きく見開いた。
「どういうことだ」
グリズリッドの問いに、クロトもレイドもすぐに反応できず、ただ黙ってグリズリッドの顔を見つめた。
「なぜ聖痕が?」
説明がないことにすこし苛立ったのか、グリズリッドは質問を重ねた。
「私たちにも突然のことで……」
レイドが口を開く。
「ただ、ひとつ言えるのは――魔導士殿が突然聖女に覚醒されたのでは、ということです」
短く、しかし的確なレイドの説明に、グリズリッドは目を細める。
「倒した城主の体が外からの光で浄化され、消失した――あの光は、聖女に覚醒した光だったということか」
独り言のようにグリズリッドは呟く。
「……とりあえず上がれ」
グリズリッドに命じられ、クロトとレイドは顔を見合わせ、同時にくしゃみをした。
ずい、と目の前にグリズリッドの手のひらが迫る。
無言で差し出された手を、クロトは遠慮がちに重ねた。
その瞬間。
指先が触れたところから、熱が一気に弾けた。
ぐらりと視界が揺れる。
「……おい?」
グリズリッドの声がわずかに低くなる。
応えようとしたが、うまく声が出ない。
足元の感覚が、すとんと抜け落ちた。
――まずい。
そう思ったときには、もう遅かった。
低い声が、すぐ近くで何かを叫んだ。
ぶつかるように引き寄せられて、身体が浮く。
抱き留められたのだと、遅れて理解した。
腕の中が、やけにあたたかい。
その温もりに、ほっとしたのを最後に。
意識は闇に沈んだ。
寒い。
身体がぶるぶると震え、肌の表面がぞわぞわする。
熱が上がっているらしい。
身体がだるく重い。
――このくらい、大丈夫。
そう思おうとした瞬間。
「……クロト」
名を呼ばれて息を呑む。
懐かしい、金の鈴が転がるような声。
「ナシェル?」
返事をしたつもりだったけれど、声は出なかった。
気づけば、クロトは見覚えのある場所に立っていた。
白い石の床。
高い天井。
祈りの場。
聖女選出の儀で訪れた、あの泉のそばだ。
水面は静かで、月明かりを映している。
その向こうに、彼女が立っていた。
月光に桜を溶かしたような銀髪に、薄い銀色の瞳。
その瞳は、まるでオパールのように様々な色の光を反射させた。
かつて、自分の代わりに聖女になった彼女。
あの日のままの姿で。
けれど、瞳だけが冷たく澱んでいる。
「ねえ、クロト。随分髪が長く伸びたのね」
語りかけられると何故か背筋に悪寒が走った。
「長いの、似合うわ」
ナシェルが知っているクロトは、髪を肩の上に切り揃えていた。
「だから言ったでしょう?」
ナシェルは生前絶対に長い方が良いと言い張っていた。彼女が亡くなってからというものの、それを思い出して髪を切れなくなってしまった。
クロトが黙っていると、ナシェルはにっこりと目を細めて笑ってから口を開く。
「ねえ、クロト。わたし、どうやって死んだと思う?」
ナシェルは、微笑んだ。
「心臓が痛くて、体も動かなくて、痛くて、でもだあれも来てくれなかった。だあれも助けてくれなかった」
クロトは思わず顔を顰める。
耳を塞ぎたくなる衝動を必死で抑え込んだ。
「死ぬんだなって思ったとき……わたしね、悔しくて仕方なかったの」
一歩、彼女が近づく。
泉の水が、足元で小さく揺れた。
「なにひとつ手に入れられなかった」
胸が、痛む。
「優しい家族も、才能も、力も、恋も、なにも」
胸が、軋む。
「……リズをとらないでよ」
銀の瞳は懇願する。
「リズはわたしの話を聞いてくれて、わたしを受け止めてくれた」
ナシェルの声は、責めるようでいて、どこか幼かった。
「クロトは何でも持ってるじゃない。クロトばっかり、ずるい」
ナシェルは小首を傾げた。
「手に入れられないなら、わたし、リズを殺しちゃうかも知れないよ?」
クロトは大きく息を呑んだ。
「――ナシェル!!」
それは心の底から湧き上がる憤怒だった。




