第二十三話 夢現
「――ナシェル!!」
そう叫んで、クロトはナシェルへ手を伸ばす。
掴んだ手首は太く、がっしりとしていた。
「クロト!」
近くで名前を呼ばれて、クロトは目を瞬く。
その声は……
「殿下……?」
「大丈夫か」
クロトは、掴んだグリズリッドの手首を離す。
どうやら寝ぼけて起き上がり、グリズリッドに掴み掛かったようだ。
「申し訳……」
二の句が踏めなかった。
喉が焼けるように熱く、全身が火照っている。
思考がうまく展開できない。
「すごい熱だ」
遠慮がちに額に触れた指が冷たくて気持ち良い。
「冷たくて気持ちいい……」
クロトは、うわ言のように心の声を呟いていた。
グリズリッドの手が一瞬固まり、額から退けられてしまった。
「もう少しだけ……」
グリズリッドの手が離れた途端、ひどく名残惜しい気がして、クロトは無意識に眉を寄せた。
「勘弁してくれ」
グリズリッドは横を向いたまま、クロトを担ぎ上げた。
「ふえ?」
熱に浮かされ、クロトはよくわからないまま身を預けた。
「だからちゃんと寝台で眠れと言ったんだ」
子どものように怒られて、クロトは少しおかしくなる。
「殿下」
笑いを堪えながらクロトは口を開く。
「名前、覚えてくださってたんですね」
「おい」か「魔導士」と呼ばれていたものだから。
「てっきりご存知ないのかと思っていました」
どさりと乱暴に寝台に降ろされた。
「クロト」
低く抑えられた声で呼ばれ、不覚にもどきりと胸が高鳴る。
「覚えているに決まっているだろう」
部屋が暗くて、グリズリッドの顔は伺い知れない。
でもすこし真剣な声に、クロトは押し黙った。
「……ナシェルの夢を見たのか」
グリズリッドはすこし拗ねたような口調で聞きながら、クロトの額に布を当てた。
冷水に浸したばかりなのだろう、ひやりとした感触が心地いい。
「はい」
クロトは目を閉じる。
近くで水の入った杯を手に取る音がした。
「少しずつでいい」
グリズリッドはクロトの頭を支えながら、杯を唇に当てた。
水が喉を通るたび、焼けつく感覚がわずかに和らぐ。
グリズリッドは静かに言う。
「ただの夢だ」
水を飲み終えると、殿下は再び布を冷水に浸し、絞った。
「罪悪感があるのだろう」
静かな声音だった。
声が闇に溶けて染み入るようで心地よかった。
「以前、お前が聖女になっていればなどと言ってしまった手前、説得力に欠けるが……」
グリズリッドはそっと繊細なガラス細工にでも触れるかのような手つきでクロトの頬に触れた。
「まだ言ってるんですか……前に、謝ってくださったのに」
クロトは、ぼんやりと瞬きをする。
「お前が罪悪感を覚えなくて良い」
グリズリッドはきっぱりとした口調で言う。
「彼女が選ばれたことも、失われたことも、お前が生きていることも」
グリズリッドは、クロトの手を強く握った。
「お前のせいではない」
熱のせいか、その言葉が胸に染み込むのが分かった。
涙が出そうで、クロトは何度も目を瞬く。
「……はい」
絞り出すようにそれだけ言って、クロトは黙る。
これ以上話したら本当に泣きそうだった。
「改めて聞いても良いか」
手を握る力が一段強くなり、クロトは少しグリズリッドの方へ顔を動かす。
火の魔導石の微かな光が、寝台の側の椅子に腰掛ける殿下の姿を後ろからぼんやりと照らしている。
暗くて、その表情は伺い知れない。
「何故、そこまで魔導士でいたかったんだ?」
クロトは少し考えてから口を開く。
「私には、魔導しかなかったんです」
グリズリッドは二の句を待つように黙っている。
「公爵家の長女なのに、昔から愛想のない女の子どもでしたから、令嬢がして当たり前のことが私にはできなかった」
ダンスも、刺繍も、花も、お菓子も、ドレスも、ぬいぐるみも。
本ばかり読んで、部屋から出てこないような子どもだった。
「生まれつき、人にはないほどの魔力を持って生まれたそうで――母は生まれたばかりの私を抱くことが出来なかったそうです」
さぞ気味が悪かったことだろう。
クロンクヴィスト公爵夫人は、ほとんどクロトの部屋を訪れることはなかった。
妹が産まれてからは、家の中でクロトの存在はまるで空気のようになった。
「魔導で生き抜くことは、私の意地でもありました」
額の布を取り替えるためか、グリズリッドが身を乗り出す。
指先がクロトのこめかみあたりに触れた。
「公爵令嬢が最高位魔導士にまでなるのだから、大したものだ。家を出て独立するつもりだったのだろう?」
クロトは頷く。
「なるほど」
心ここにあらずな返事をし、グリズリッドはクロトの額に新たな布を置いた。
「それは好都合かも知れない」
そして、独り言のように呟く。
「え?」
相変わらず、グリズリッドの表情はこちらから見えない。
「こちらの話だ。寝ろ」
命じられるように言われると、何故か瞼が重くなってきた。
「……朝まで離れないから」
その言葉は夢か現か。
クロトは安心して再び夢へ落ちていった。




