第二十一話 覚醒
噴水の水音が、いつもの調子に戻っていた。
クロトは深く息を吐き、外套の裾から滴る水を払った。
「……終わりました、よね」
「たぶん?」
レイドは噴水の中を覗き込み、砕けた石を確認してから棍を消す。
「大丈夫そうですねえ」
その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。
「殿下が心配ですね」
クロトがそう言って踵を返した、その時だった。
――ざり。
石を引きずるような音が、広場の奥から響いた。
――ざり。
ひとつではない。
複数。
不規則で、重たい足音。
レイドが即座に顔を上げる。
「……来ます」
月明かりの下、広場へとなだれ込んできたのは、人影だった。
いや――
かつて人だったもの。
破れた作業着。
砦の紋章が残る外套。
濁った瞳。
「……砦の人たち……」
声が震えた。
かつて砦で働いていた者たちが歩いている。
否、歩かされている。
「黒魔導、ですよねえ」
レイドの声が、珍しく硬い。
「なんて数なの」
前も、後ろも、
逃げ道を塞ぐように、アンデッドが溢れてくる。
レイドが、クロトの腕を掴んで引っ張る。
「魔導士殿」
レイドが噴水を指す。
「一か八か! 聖女のご加護があるかも知れません」
何の根拠もなかったが、クロトは頷いてそれに従うことにした。
冷たい水が足元から跳ね上がり、
二人で噴水の中へ飛び込む。
本当に聖水だったのかも知れない。
アンデッドたちは水の中に入ってこない。
次の瞬間。
――水面が、光った。
淡い光が、円を描くように広がっていく。
「……え?」
水面に、見覚えのある紋様が浮かび上がる。
聖女選出の儀で見た、
あの――聖紋。
「なんで今……?」
クロトの声が、裏返る。
優しい光は水面だけでは終わらず、噴水の泉をも越えて一帯を照らし始めた。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
額に何かが触れた気がして、クロトは無意識に手を当てる。
水面に映った自分の姿を見て、息を呑んだ。
額に、同じ聖紋が浮かび上がっている。
眩いほどの光を放って。
これではまるで。
「……まさか」
これではまるで、聖痕を受け入れた後の聖女ではないか。
「魔導士殿……」
隣で見ているレイドも鳶色の瞳を見開いて驚きの色を隠せない。
何もしていない。
祈ってもいない。
願ってすらいない。
受け入れた覚えはない。
それでも。
世界が応えた。
噴水から溢れ出した光が、波となって広場を包む。
アンデッドたちが、一斉に動きを止めた。
悲鳴も、叫びもない。
ただ――
光に触れた瞬間、
夥しい数のアンデッドが、静かに崩れ落ちていく。
骨は土へ。
肉は塵へ。
まるで最初から、そこにいなかったかのように。
数息の後、
広場に残ったのは、夜と水音だけだった。
静けさを取り戻した噴水の中で、クロトとレイドは立ち尽くしていた。
「……レイドさん」
頭が真っ白になって、思考がうまく働かない。
「これって……」
言葉が、続かない。
レイドは一度クロトを見て、それからゆっくりと目を伏せた。
「本来、適応する人というのは――自分の意志に関わらず選ばれてしまうものなのかも知れませんねえ」
いつもの軽い口調なのに、言葉は重く感じた。
クロトは茫然と、いたたまれなそうなレイドの顔を見つめた。
噴水の水が、まだ淡く光っている。
(私は、何もしていないのに)
世界は、クロトを――
聖女だと決めてしまったのだろうか。
噴水の水音だけが、何事もなかったかのように夜に溶けていた。
クロトは、ゆっくりと息を吸った。
肺に入ってくる夜気は冷たく、さっきまでの熱が嘘のように身体を冷ましていく。
それでも胸の奥だけが、まだじんわりと温かいままだった。
噴水の縁に手をつくと、石がひどく冷たく感じられる。
現実に引き戻される感覚に、わずかに安堵した。
――夢じゃない。
水面に映る額の聖紋は、すでに薄れ始めている。
だが、完全には消えていなかった。
「……殿下に、どう説明しましょうかねえ」
レイドが、困ったように笑う。
その声で、はっとする。
クロトを取り巻く要人たちの姿が、次々と万華鏡のように浮かんでは消えた。
ここで起きたことは、きっと隠しきれない。
「今回はさすがに断れなさそうですね」
クロトは観念したように天を仰いだ。
「そうですねえ」
レイドは否定しなかった。
それが、何よりも重かった。
彼は噴水の水面に視線を落としたまま、静かに言う。
「これぞ天命なんですかねえ」
噴水の水音が、一定のリズムで耳に届く。
何も知らない顔で、世界は変わらず回り続けている。
クロトは外套の襟を握りしめ、小さく呟いた。
「……そうなんでしょうか」
答えは返ってこなかった。
ただ、夜の空に浮かぶ月だけが、静かに光を落としていた。
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