第十四話 奥室
通された奥の部屋はさらに妖しさ満開だった。
赤い照明が天井から落ち、影はすべて輪郭を失って溶ける。
香の匂いは手前の部屋よりも濃く、甘さの奥にかすかな苦みが混じっている。長く焚き染められたそれは、呼吸のたびに鼻の奥へ絡みついた。
中央には天蓋付きの寝台。
重そうな緋色のカーテンが半分だけ開かれ、絹の寝具はほとんど皺もなく整えられている。使われた痕跡がないことが、逆にこの場所の異様さを際立たせていた。
低い卓子の上には、琥珀色の酒が注がれたグラスが二つ。
片方だけが少し減っており、縁にはかすかな指の跡が残っている。銀の燭台に灯る炎は揺らめきながら、壁に人影のような形を映し出した。
足元の絨毯は厚く、歩くたびに音を吸い込む。
男性とこんな部屋に二人きりになると、妙に緊張してしまい、クロトは背筋を伸ばし、部屋の隅で固まる。
グリズリッドは悠々と歩き、当然のように寝台に腰掛けた。
「そんなところに突っ立ってないで座れ」
怪訝な顔で言われ、クロトは狼狽える。
「えっ……と、どちらに?」
「ここだ」
グリズリッドの指が示したのは、自分の隣。
「……はい」
クロトはおずおずと寝台に腰掛け、隅っこに腰掛ける。
「まさか緊張してるのか?」
グリズリッドはにやりと笑ってクロトを見やる。
赤い光に照らされたグリズリッドは、やけに妖しく美しい。
「べっつに、してませんけど?」
クロトは平静を装ってグリズリッドのすぐ近くに座り直す。
わざとどすんと音を立てて、手のひらひとつ分詰める。
グリズリッドは一瞬だけ目を瞬かせ、それから喉の奥で小さく笑った。
「そうか」
短くそう言うと、肘が軽く触れるくらいまで体を預けてくる。
シダーウッドの香りが鼻腔に届き、ばくんと心臓が跳ねた。
「随分と勢いよく入り込んできたくせに」
吐息が絡みそうな距離で、グリズリッドは低く呟く。
からかうようでいて、視線は熱っぽくクロトを見つめた。
「……もし殿下が毒殺されていたら、私は処刑されてしまいます」
目を逸さずにはいられず、思わず横を向く。
グリズリッドはクロトの後ろの卓子の上のグラスに手を伸ばした。
グリズリッドの首筋が指一つ分くらいの距離まで迫る。
グラスを手にしたグリズリッドは元の位置に戻ると、クロトは気づかれないように安堵のため息を漏らした。
「その飲み物、大丈夫ですか?」
「心配なら先に飲むか?」
グリズリッドはグラスをクロトの目の高さに持ってきた。
「いただきます」
クロトなら、たとえ毒を飲んでもすぐに解毒できる。
グラスの中では琥珀色の液体が揺れて、甘い香がふわりと立つ。
それを、緊張のあまり一気に飲み干した。
「お前、それ……!」
「すみません、つい全部飲んでしまいました!」
グリズリッドは吹き出すと、声を上げて笑った。
「それ、度数高いぞ」
目尻に涙を浮かべて破顔するグリズリッドに、クロトは目を瞬く。
「……喉が焼けるように熱いです」
「それで済むなら大したものだ」
グリズリッドはしばらく笑ってから、ひとつ息を吐いた。
「先ほどはすまなかった」
クロトは目を瞬く。
「ナシェの死はお前のせいではないのに。何も知らず感情的になってすまなかった」
クロトは空のグラスを見つめて握りしめる。
謝ってもらえるとは思っていなかった。
「それだけ、ナシェルのことが大事だったということでしょう」
グリズリッドはすこし思案するように首を捻る。
クロトは次の言葉が来ないことに不安になり、思わず彼を見上げた。
深い青の瞳と視線が絡んだ。
「ああ、大事な……友人だった」
クロトは険しい顔をする。
「それ、気になっていたんですが」
グリズリッドは目を瞬く。
「本当にただの友人ですか?」
クロトは身を乗り出してグリズリッドに迫る。
「っ……」
グリズリッドが急に横を向くので、何かと思えば。
もうすこしで鼻と鼻がくっ付いてしまうくらい近い距離だった。
「も、申し訳ございません!」
クロトは慌てて乗り出した身を引っ込める。
「王都で偶然会って、そのときは聖女候補だと知らなかった。何度か街で会って……王宮で再会したときは、驚いた」
何度か街で会っただけ。
「一度、毒で殺されかけたときに、一晩中解毒の治療をしてもらったことがあって……しかし、礼を言う前に亡くなってしまった」
じゃあ、ナシェルの……片想い。
「世間話をする異性などいなかったから新鮮で……って……」
グリズリッドは急に驚いて言葉を詰まらせる。
どうしたのかと、クロトもグリズリッドを見る。
「どうした」
明らかに狼狽えているグリズリッドに、クロトは首を捻る。
「なぜ泣いている」
聞かれて、クロトは頬から顎に伝う涙に触れた。
「え?」
濡れた指先を見つめ、クロトはひどく慌てる。
人前で泣くなんて、子どもじゃあるまいし。
「こ、これは……なんでしょう?」
ぼろぼろと目から涙は止まらなかった。
グリズリッドも、一層焦った様子でおろおろしている。
止まれ、止まれ、お願い止まって……。
焦れば焦るほど、涙は溢れ、息がしづらくなってくる。
嗚咽は我慢できず、息が苦しくて喉を抑える。
涙を止める魔導はない。
「泣くな」
グリズリッドはクロトの耳元で囁くと、静かに身体を抱きしめた。
グリズリッドの心臓の音が、早い。
そんなことを思っていると、急に強い眠気に襲われた。
「あったかくて、気持ちいい……」
心の中で思ったのか、口に出してしまったのかわからない。
次の瞬間、クロトの意識は深く沈んだ。




