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第百八話 宣言 ー彼の選んだものー

「さて、わざわざ王太子殿下が来るということは、それなりの理由があるんだろう? グリズリッド」


 優雅な微笑みを浮かべたまま、ユリクシスはグリズリッドを静かに見つめた。


「このようなものが」


 グリズリッドは、社交用の華麗な笑顔を貼り付けて、ユリクシスに直接書類を手渡す。

 微笑みのまま書類に視線を落とし、ユリクシスは再び顔を上げた。


「ふうん、黒聖石? 面白い計画だね」


 ユリクシスは書類を一枚ずつ丁寧にめくる。

 優雅な微笑みは崩れない。

 なのに、部屋の空気が少しずつ冷えていく。


「日付は三日前です」


 グリズリッドも笑う。

 互いに笑っているのに、周りは誰も笑っていない。


「兄上なら何かご存知かと」

「知らないなあ」


 その声音を聞いた瞬間、クロトの背筋に冷たいものが走った。


 ——嘘だ。


 そう直感する。

 理由なんて、考えるまでもない。

 知っているからだ。

 この人は、嘘をつく時ほど優しく笑う。


 ユリクシスは静かにカップをソーサーに置いた。


「こんなものどこで見つけたんだい?」

「それは言えません」


 初めてほんの一瞬だけ、ユリクシスの笑みが薄れた。

 けれど次の瞬間には、何事もなかったように肩を竦める。


「そう」


 改めて、優雅に微笑む。


「残念だな」


 小さく首を傾げる。肩まで伸ばしたラベンダーアッシュの髪がかすかに揺れた。


「でも、王太子殿下がわざわざ私のところまで来る理由としては、少し弱い気がするけれど」


 深い青の瞳が、真っ直ぐグリズリッドを射抜く。


「他に何を知りたいんだい?」

「兄上こそ、何を隠しているんですか」


 くす、とユリクシスは笑う。


「何も」


 グリズリッドは一度息を吐く。


「では、この前の話の続きがしたいのですが」

「この前の話?」

「兄上が、ナシェルを救おうとしたという話です」


 クロトが、素早くグリズリッドを見る。


「先日襲撃されたアッサラートの男が言うに、黒魔導というものはこの世に存在しないのだそうです」


 グリズリッドはユリクシスに顔を向けたまま、食卓の下でクロトの手を握った。

 

「ずっと、ナシェルは黒魔導に堕ち、自ら黒魔導士となったのだと思っていました」


 クロトの呼吸が浅くなる。

 

「しかし、先日兄上と話をして驚きました。兄上は、実に色々なことを知っている——知りすぎている」

「まるで、誰かの目を借りて見ていたようだと感じました」


 グリズリッドは微笑んだまま続ける。


「ナシェルの傍に、ずっといたということですか?」


 ユリクシスは、微笑んだまま視線を落とした。


「……救いたかったよ」


 静かな声だった。


「誰よりも」


 深い青の瞳が伏せられる。


「でも、私は間に合わなかった」


 その言葉に、グリズリッドはゆっくり目を細めた。


「兄上は、今でもナシェルが自ら堕ちたとは思っていないんですね」


 ユリクシスは答えない。

 ただ、カップの縁を白い指先でなぞっている。

 父王と同じ癖だ。


「ならば、誰が堕としたのでしょう」


 ユリクシスは肩を竦める。


「死にゆく彼女を見ていた人物、そして死んだ彼女の部屋に百合の花を手向けた人物がいる」


 繋いだ手に力が入る。


「貴方だったんですね、兄上」


 グリズリッドは微笑みを消す。


「あなたは、ナシェルを救おうとして壊したのですか?」


 ユリクシスの指先が、ぴたりと止まった。


「生きることを望んだのは——彼女自身だよ」

「あなたが……ナシェルを?」


 静かな声音だった。

 しかし、震えを孕んだクロトの声は冷ややかに響く。


「ナシェルを、利用したんですか」


 繋いだ手が微かに震える。


「なぜですか? あなたのその足は、ナシェルを助けたからじゃないですか」


 ユリクシスは僅かに眉を下げた。


「ナシェルはアッサラートの血の適合体だったけれど、適合率は低かった。ナシェルの処置の後、あなたの足は動かなくなった。あなたが、代償を受けたんでしょう?」


 まるで追求から逃れるように目を閉じる。


「憶測だね」

「私は子どもで、あのとき何が起きたのか、分からなかった。いえ、考えようとしていませんでした」


 クロトはユリクシスを睨む。

 

「死んだナシェルを使って、魔導士の心臓を集めて、黒聖石を作って、それで?」


 そして思わず身を乗り出した。


「あなたに何が残るんです?」

「クロト、もういい」


 制したグリズリッドを、クロトは睨む。

 

「ちょっと黙っててください」


 しばらく沈黙が続いた。

 ふ、と。

 ユリクシスが笑った。


「何も」


 あまりにもあっさりと。


「何も残らなかった」


 深い青の瞳が、どこか遠くを見ている。


「ナシェルは死んだ。私の足は動かない。王位も、自由も、欲しいものは何ひとつ手に入らなかった」


 それでも。

 彼は笑う。


「……でも、もしやり直せても」


 一瞬だけ。

 優雅な仮面が崩れる。


「私は、また彼女を選ぶよ」


 クロトは唇を噛み、ユリクシスから目を逸らした。


「愚かですね。別のやり方を考えないのですか」

「そうかもね」


 俯いたクロトは、しばらく黙り込む。

 深い沈黙が支配する。

 やがて、顔を上げる。

 その空を思わせる青の瞳に、迷いはない。


「あなたのやったことは、議会で明らかにします」

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