第百七話 要塞 ー最後の朝餐ー
夜明け前の空気は、肌を刺すように冷たい。
東の地平線がわずかに白み始めた頃、焚き火の跡を完全に消し去った五人は、断崖絶壁の麓に立っていた。
見上げる先には、朝靄の中に黒々とそびえ立つ城塞――アズール・フォートレス。
「どうする、グリズリッド。あの扉、燃やせるけど?」
サラが赤い髪を実戦用にきつく結び直し、不敵に笑う。その両手からは、いつでも爆炎を解き放てるよう、微かな熱気が陽炎のように立ち上っていた。
「……どう見ても鉄だぞ」
グリズリッドが冷ややかにサラを見た。
「戦争じゃない。真正面から訪ねて行けばいい」
「話し合いのためのメンバーには見えませんけどねえ」
レイドが横槍を入れる。
「レイド卿の意見、僕も同じくです」
「ねえ? 明らかに襲撃メンバーですよねえ」
グリズリッドは鼻で笑う。
「念を入れただけだ」
「ユリクシスが、黒聖石の存在を簡単に明かすとは思えません」
クロトが静かに言った。
「……力ずくで聞き出しますか」
全員が石像のように固まる。
「違いますよね!?」
レイドが即座にグリズリッドに確認する。
「当たり前だ」
グリズリッドが即答した。
「ユリクシスに剣を向ければこちらの負けだ」
「政治が絡むとどうも話がややこしくなって好きじゃないですね」
眉根を寄せたクロトに、サラとフェイがため息を吐く。
「あんた、当たり前じゃない。病気で車椅子の元王子様に力ずくはダメでしょー」
「クロト様も結局脳筋なんだよなぁ」
「もって、誰のことよ」
「扉燃やすって言ってた脳筋のことです」
「はあ!? 燃やすわよ!」
静かに魔導士たちのやり取りを見ていたレイドが、グリズリッドに向き直る。
「良かったです……殿下が二番目にマトモで」
「……二番目?」
「私が一番マトモですよ。だって私しかツッコミいないじゃないですか」
「うるさい、何言ってんだ。もう全員わけわからん……行くぞ」
先頭を歩き出したグリズリッドに続き、一行は断崖の道を登る。
近づくにつれ、アズール・フォートレスは異様な威圧感を放ち始めた。
遠目にはただの城塞だったはずだ。
だが実際に目の前にすると違う。
高すぎる城壁。
閉ざされた鉄門。
人の気配のない見張り台。
まるで外界そのものを拒絶しているようだった。
「止まれ」
城門の上から声が降ってきた。
張りはあるが、抑揚のない声音。
グリズリッドは城門を真っ直ぐ見上げる。
「琥珀色の髪に、深い青の瞳。王太子殿下と、一致」
短い沈黙が落ちる。
機械のような呟きが微かに聞こえたかと思えば、金属の軋む大きな音と共に鉄門が開かれた。
「何今の……きもちわる」
サラが顔を顰める。
「なんか、既視感がありますね」
クロトの言葉に、レイドが頷く。
「あれですよ。殿下のご親戚だった砦の城主」
「ああ……」
クロトが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「変態の」
「言うな」
「思い出したら腹立ってきました。今なら局所蹴って粉砕してやるのに……」
二年前、理不尽な性的嫌がらせに屈して青ざめて逃げた自分が悔しく、クロトは目を細めた。
「妃殿下、口を慎んでください」
レイドに嗜められたクロトは、バツが悪そうな顔を作って黙った。
貴賓室に通され、グリズリッドは口を開く。
「重要な作戦会議だ」
「俺が話すからお前達は黙ってろ」
「……善処します」
「クロト、お前が一番不安なんだ」
「……経験上、殿下が一人で話すと言うときのほうが私は不安です」
不服そうなクロトの言葉を控えの従者が遮った。
「恐れ入りますが、準備が整いました」
通されたのは、白と金を基調とした優美な曲線を描く調度品が並ぶ食堂だった。
猫脚の長椅子。繊細な蔦模様が彫り込まれた飾り棚。
磨き上げられた床には深紅の絨毯が敷かれ、天井からは硝子細工のシャンデリアが柔らかな光を落としている。
「驚いたよ、グリズリッド……それにクロトまで」
「突然の訪問申し訳ございません、兄上」
つかつかと早足で近寄ると、グリズリッドは迷いなくユリクシスの右側の席に向かう。
「朝食を取っていたところだったんだ。皆さんも一緒にどうぞ」
やわらかい所作で、ユリクシスは席に着くように促す。
「やだ、グリズリッドのお兄さんめっちゃ優雅なんだけど」
「絵に描いたような王子ってかんじですね」
「こら、今王子じゃないんだから。その辺きっと気にしてる系よ?」
「え? あーそうか。大公ですもんね」
グリズリッドがわざとらしく咳払いすると、サラとフェイの小声のやり取りがぴたりと止んだ。
「構わないよ」
ユリクシスは静謐な光を湛えた深い青の瞳でサラとフェイをゆっくり見渡す。
「本当のことだから」
そして、にっこりと笑ってみせた。
形容し難い底知れなさを感じ、一同はぴたりと押し黙る。
「でも、嬉しいな」
クロトに視線が移る。
「クロトが、私の家に来てくれる日が来るなんて」
空気が止まる。
クロトが眉を顰めた。
「……どういう意味です?」
「そのままの意味だよ」
優雅に紅茶を口へ運ぶ。
「約束しただろう? 海の見える家で一緒に暮らそうって」
あからさまに、グリズリッドの眉間に皺が寄った。
「……は?」
「覚えてませんね」
クロトはしれっと言い、淹れられたばかりの紅茶を飲んだ。
——僕が君の外枠になって、君を一生守ってあげるからね。
「何から守っていただけるのでしょう」
「……覚えてるみたいだけど?」
小さく顔を顰めたクロトに、ユリクシスはくすっと笑った。
「あの頃みたいに、ユーリって呼んでもいいのに」
「お断りします。……ユリクシス様」
向かい側に座るグリズリッドの瞳が冷え切る。
内なる猛烈な怒気に気づき、クロトはそれ以上話すのをやめた。




