第百三話 鐘 ー実兄弟ー
祝福の鐘が、重く鳴った。
白い石造りの大聖堂は、まだ祈りの余熱を孕んでいる。高窓から射し込む午後の光が、香の煙を淡く照らし、その中を神官たちの影がゆらりと揺れた。
先日の即位式に続き、教皇着任の儀式が執り行われる。
本日、イヴが正式に着任したことになる。
若すぎると囁かれながらも、聖衣を纏ったその姿は、不思議なほど様になっていた。祝福を受ける横顔には迷いがなく、まるで最初からその椅子の形を知っていたかのように。
王太子グリズリッドは、形式通りの祝辞を述べ、剣を胸に当てて礼を取る。
拍手。
賛歌。
膝を折る民衆。
それは、吐き気がするほど完璧な儀式だった。
やがて神官団が教皇を囲み、奥の回廊へと導いていく。白い裾が石床を滑る。閉じかけた扉の向こうで、柔らかな声が笑った。
その音が完全に遠ざかったのを確認してから、背後で、キィと金属の擦れる音がした。
「立派だったよ、グリズリッド」
振り返らなくても分かる声。
低く、柔らかく、慈悲に満ちた響き。
グリズリッドは目を伏せたまま、答えた。
「……何かご用ですか、兄上」
回廊の柱の影から、車椅子が滑り出る。磨き上げられた銀の縁が、淡い光を弾いた。
「ひさしぶりに話がしたいと思ってね」
「そうですか、光栄です」
グリズリッドは社交用の笑みを貼り付け、振り返る。
ユリクシスは、まるで聖母のように微笑んでいる。
だがその双眸は、どこまでも澄んでいて、底がない。
遠くで再び祝福の鐘が鳴った。
だがこの回廊には、冷たい影だけが落ちていた。
「一度だけ、チェスをしたことがあったね」
グリズリッドは笑みを浮かべたまま答える。
「子どもの頃ですね。覚えています」
初めてチェスというものに触れた。10歳くらいのことだったか、とグリズリッドは巡らせる。
「……クロトとは、古い仲でね」
唐突に話題が変わる。
彼女の名を呼んだことに内心引っかかるものがあったが、グリズリッドは一切顔に出さない。
「そのようですね」
そう、にこやかに答えてみせる。
「彼女の空白の三年……魔導士学校に入る前の、美しくも残酷な季節を、私たちは共有したんだ」
ユリクシスは、懐かしむように目を細める。
「ちょうど君がまだ、地方の伯爵家で騎士ごっこに興じていた頃かな」
二つの群青の視線は交わったまま鎖のように絡む。
「グリズリッドは、この実験のことをどこまで知っている?」
「私は魔導には明るくないのでほとんどよくわかりません」
グリズリッドは首を横に振る。
「ただ――アッサラートの血が選んだのは我が妃ということだけは知っています」
回廊の空気が、凍った。
「へえ……」
ユリクシスはゆっくり顎を上げ、優雅な所作で頬に手をやる。
「強制的に聖女にさせられた彼女を、アッサラートの血が選ぶと表現するの。そういう傲慢なところは父上そっくりだね」
遠くで響いていた讃美歌が、急に別世界のもののように思えた。
「王太子に選ばれたとき……嬉しかった?」
笑顔の仮面を付けた、グリズリッドの目が冷えた。
それをユリクシスは見逃さない。
「あの夜、父上に言われたんだろう? 黒魔導士を討てば、王太子にしてやると」
石床に、車椅子の車輪がわずかに軋む。
「嫌悪しながら、同時に……嬉しかったんだろう?」
息が止まる。
「……まるで、見ていたように言うのですね」
グリズリッドの声がわずかに掠れる。
あの夜のことは誰にも語っていない。
クロトにも。
レイドにも。
父王にだって、その本心は知られていないはず。
ユリクシスは、笑う。
「そうだね」
静かに続ける。
「グリズリッドはね、欲しいものがあると目が変わるんだ」
心臓が、強く打つ。
「子どもの頃、母に褒められたくて、剣を振ったとき」
一歩、近づく。
「父上に認められたくて、無茶をしたとき」
また一歩、車椅子は近づく。
「聖女選出の儀で、クロトに出会ったとき」
さらに。
「そしてあの夜。王位を提示されたとき」
グリズリッドの笑顔の仮面が剥がれる。
「あは、その目、その顔。それがグリズリッドの本当の顔? 良い顔だね、まるで真剣のようだ」
車椅子の兄に剣の切先を向ければ、それだけで負けだ。
グリズリッドは無意識に拳を握る。
「クロトを疑い、彼女から逃げたこともあるよね。それは、取り返しのつかない結果をもたらした」
穏やかに、優しく。
「恥じることはない。人は、望みの前で弱くなるものだからね」
「……黙れ」
低くなった声に臆することなく、ユリクシスは笑った。
「三人の女の屍を踏んで、君は生きている」
ユリクシスは車椅子を止め、毒を注ぐように囁く。
「君の生への執着は凄まじい」
そして、静かに。
「それは、人として正しいんだよ、グリズリッド。人は何かに執着するものだ」
遠くで鐘が鳴った。
祝福の音が、やけに空虚に響く。
「でもあの子は違う。クロトはね、死ぬ間際に私を跳ね除けた。彼女は、闇に落ちなかった」
ユリクシスは、どこか遠くを見るように笑った。
「生にも君にも執着しない。その姿に私は感動したよ」
そして、目を細める。
「ナシェルは、違う。生きたかった。君に愛されたかった。君と未来を見たかった」
グリズリッドは息を呑む。
「一体何の話を……」
「まだ死にたくない。そう泣いた彼女を……私はもう一度救いたくなった」
四度目の祝福の鐘が鳴った。




