第百一話 未熟 ー分たれた道ー
目を開けると、見覚えのある魔導士の塔の天井が見えた。
石造りの無機質な天井。しばらくその煉瓦の継ぎ目を数えるように眺めてから、フェイは身じろぎした。
首の後ろが、芯からじんと痺れている。
意識を刈り取ったクロトの手による衝撃が、まだ熱を持って残っていた。あえて回復魔導を施さなかったのだろう。その痛みが、フェイには何よりの叱責のように感じられた。
「目が覚めましたか」
涼しい声が部屋の静寂を切り裂く。
いつもより一段と低く、冷たく、そして硬く響いた。
声の方へ視線を向けると、寝台の横に座っていたクロトが、静かに椅子から立ち上がった。
空のような、あるいは深く澄んだ湖水のような、底の見えない青い瞳が、容赦なくフェイを見下ろした。
(……クロト様、相当怒ってるな)
フェイは重い肺から一度息を吐き出す。
「……てっきり、目が醒めたら地下牢の格子越しだと思っていましたよ」
フェイはゆっくり瞬きをしてから、強がりを混ぜた軽口を言う。
しかし、クロトの表情は微動だにしない。
「大公閣下の寛大な計らいにより、貴方の暴挙は罪に問わないとのことです」
ですが、とクロトは氷の刃のような言葉を続ける。
「独断で持ち場を離れたこと、上官の命令に背いたこと、そして公衆の面前で王族に攻撃を仕掛けようとしたこと……最高位魔導士として以前に、人として相応の罰は受けてもらいます」
感情を削ぎ落とした事務的な声音。それがかえって、フェイの心に重くのしかかる。
「無期限の謹慎処分とします。塔からの外出も一切禁じます」
クロトはそれだけ告げると、一度もフェイの顔を窺うことなく踵を返した。
「声がかかるまで大人しく反省なさい」
背中でそう言うと、クロトは部屋の扉に向かって歩き出した。
「待ってください、じいさんの監視は……」
フェイは慌てて身を起こし、遠ざかるクロトの背中に声をかける。
首の後ろが鈍く痛み、フェイは顔を顰める。
「最高位魔導士は、全部で十二名。貴方にしかできない仕事ではありません」
クロトは振り返らずに答えた。
「フェイ」
扉の取っ手に手をかけたところで、彼女は一度だけ首を巡らせた。
「貴方は私の最年少記録を塗り替え、たった十四で最高位となった」
振り返った彼女はいつも通り、陶器の人形のように美しかった。だが、その双眸はいつになく険しく、逃げ道を塞ぐようにフェイを真っ直ぐに射抜く。
美しいからこそ、その眼差しには暴力的なまでの凄みがあった。
「でも」
クロトは声を低くする。
「その幼さは命取りになる」
そして断言するかのように、はっきりとした声音で言った。
「感情を殺せとは言いません。ですが感情に流されて振る舞うことは魔導士であっても、騎士であってもしてはならない」
彼女の言葉は頭では痛いほど理解できる。
「大人に混ざって仕事をするとはそういうことです。魔力と精神が釣り合っていない者は、武器を持った子供でしかありませんよ」
しかし、納得するのを心が拒否した。
「精神がいつまでも子どものようなら、貴方に最高位の席に座り続ける資格はありません」
それだけを冷徹に言い残し、クロトは今度こそ背を向け、部屋から出ていった。
扉が閉まる無機質な音だけが、がらんとした部屋の中に虚しく響き渡る。
「……くそ」
小さな声で、フェイは毒付いた。
拳で寝台を叩くと、鈍い振動が全身に伝わる。
僕が悪いのか?
必死に弟たった一人の家族を守ろうとした僕が。
脳裏に、あの男の笑顔がチラつく。
肩まで伸ばしたラベンダーアッシュの髪。深い青の瞳。
グリズリッドと、似ているようで決定的に何かが違う、あの美貌の男――ユリクシス。
即位式の最中、車椅子に座りながら、彼はまるですべてを見透かしたように穏やかに微笑んで言ったのだ。
――イヴは檻の中で守られる存在じゃない。
脳裏に柔らかく鋭い声が蘇る。
――そうやって閉じ込めて、安心していたのは――君自身なんじゃないかな?
(……なんでだよ)
ごろんと乱暴に寝返りする。
ずきりと首の後ろが痛んだ。
(どれだけ僕が自分を犠牲にしたか……)
フェイは唇を噛む。
いつの間にか、手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめていた。
(だから、イヴは……)
即位式の壇上にいたイヴの瞳を思い出す。
フェイと同じ菫色の瞳には、かつてのような怯えも迷いもなかった。
儀式の最中、一度もフェイと目が合うことはなかった。助けを求めるような震えもなかった。
彼は、フェイの知らないところで、自分の足で立っていた。
(……僕から、逃げたのか)
自分を取り戻すために。
あるいは、自分を見つけに行くために。
それがフェイと違う方向を向くことになったとしても。
(……僕がいなくても、生きていけるようになったのか)
フェイは再び寝台に倒れ込み、天井を睨んだ。
「お前、本当にそれでいいのか」
風が窓を揺らす。
答えは、当然返ってこない。




