第百話 即位 ー兄という名の檻ー
執務室に移動したクロトたちはフェイに尋ねた。
ユリクシスの隣にいた人物を。
フェイは唇を噛み、白くなるほど拳を握った。
「間違いなく、ユリクシスの隣にいたのは……弟のイヴです」
グリズリッドは目を細める。
「明日何があるか知っているか」
フェイは呆然とした顔で緩く首を横に振る。
「新教皇の即位式だ」
グリズリッドが告げた言葉に、フェイは息を呑む。
「まさか……!」
「教皇の国葬の次の日に即位式を執り行う。国葬に第一王子の隣にいた人物――ほぼ確定的だろう」
グリズリッドは、フェイの細い肩を軽く叩いた。
「イヴが教皇……? そんなバカな……」
「なぜ、そう思うんです?」
錯乱したフェイとは目が合わない。
クロトは両手でフェイの肩を掴み、こちらを向かせた。
「なぜ、彼が引き受けるはずがないと思うんですか」
だって……とフェイは声を震わせて俯いた。
「だってあいつは、僕がいないと何もできなかった」
細い顎に涙が伝う。
「何も決められないし……ただ静かに笑ってるだけで……人前でまともに話すこともできないのに」
乱暴に腕で涙を拭い、フェイは顔を上げた。
クロトをまっすぐに見つめた菫色の瞳に強い光が戻る。
「でも、イヴが弱いのは精神と体。魔力は僕より多いし、聖石との適合率も僕より高い。イヴは……利用しやすい人物だと言えると思います。前聖女……ナシェル様みたいに」
鐘の音が、王都の空を震わせた。
白大理石の大聖堂は、朝の光を受けて神々しく輝いている。高く掲げられた聖旗がゆるやかに揺れ、集まった群衆のざわめきが波のように広がっていた。
玉座の前に敷かれた緋色の絨毯の上を、ゆっくりと歩く影。
新たな教皇――イヴ。
純白の法衣はまだ身体に馴染まず、細い肩には重すぎるほどの金糸の刺繍が縫い込まれている。それでも彼は俯かない。まっすぐに、祭壇を見据えていた。
その姿を、クロトとフェイは列の端から見つめていた。
王太子殿下――グリズリッドが聖印を掲げる。
「ここに、神と王国の名のもとに――」
グリズリッドの声が明朗に堂内に響く。
荘厳な宣誓に群衆が跪き、頭を垂れた。
黒いベールを取ったイヴは、御伽話から出てきたような……なんとも浮世離れした儚い雰囲気の少年だった。
顔立ちはフェイとそっくりなのに、纏う雰囲気はまるで違う。
イヴの菫色の瞳は虚空を捉えているように見えた。
一才揺らぎのないその目線は、一度もフェイを見ることはなかった。
鐘が鳴る。
歓声が上がる。
新たな教皇の誕生を祝う声が、大聖堂を満たした。
式が終わるや否や、フェイは黙って駆け出した。
クロトはぎょっと目を剥く。
「フェイ君……!」
慌ててドレスの裾を持ち上げ、踵の高い靴をその場で脱ぎ捨て、フェイの後を追った。
フェイは法衣の裾を踏みつけるのも構わず、回廊を抜け、舞台裏へ向かう。
警護の神官が立ち塞がる。
「どいてください」
声は低い。
「関係者以外は――」
「僕はイヴの兄だ」
その言葉に、神官が一瞬だけ迷う。
だが、その隙を縫ってフェイは踏み込んだ。
「待ちなさい……! フェイ君!」
フェイにクロトの声は届かない。
迷うことなく奥の控え室へ入っていく。
重厚な扉の前に、車椅子の青年がいる。
ユリクシス大公。
その背後には、護衛の神官たち。
「殿下、大変申し訳ございません」
フェイに追いついたクロトは、肩で息をしながら跪く。
「……弟を返せ」
フェイの声は震えていない。
怒鳴るわけでもなく、ただ低い。
ユリクシスは静かに視線を上げた。
「返す?」
穏やかな声音。
「イヴは今日、自らの足で壇上に立ったというのに?」
「違う、あなたが立たせたんだ」
フェイの声が鋭くなる。
「檻から出してやっただけだよ」
クロトはフェイの肩を掴む。
「フェイ、落ち着きなさい」
クロトの手を振り払おうと肘を上げたフェイの腕を、更に掴む。
「離してください」
フェイはユリクシスから目を逸らさず、クロトに言う。
「……イヴはあなたの道具じゃない」
ユリクシスはわずかに首を傾げる。
「道具?」
薄く笑った。
「君は、イヴが誇らしくないのかい?」
フェイの動きが止まる。
「あの子が表舞台に立つことがそんなに嫌かな?」
言葉が、ゆっくりと沈む。
「イヴは檻の中で守られる存在じゃない」
ユリクシスの声は穏やかだ。
「そうやって閉じ込めて、安心していたのは――君自身なんじゃないかな?」
フェイは一度大きく息を呑む。
そして、次の瞬間クロトの制止を振り切り、ユリクシスに向かって一歩踏み込んだ。
クロトは更に大きく踏み込み、魔導を込めた右手の小指の側面でフェイの首の後ろを的確に打った。
白目を剥いて失神した少年の黒いフードを乱暴に掴む。
「申し訳ございません、監督不届です」
ユリクシスはクロトに優雅に微笑む。
「構わないよ、驚いたのだろうから」
しかし、深い青の瞳は笑っていなかった。
「でも彼はもう、兄という名の檻の中には戻らない」
回廊の奥で、遠く鐘がまだ鳴っている。
祝福の音が、やけに遠い。
――誰のための祝福なのか、わからなかった。




