書籍化記念SS 狐さんは、今日も頁をめくる グレゴリーside
「お母さん、早く早く」
弾む声とともに、クロエ様たちの娘、マリエル様が馬車から軽やかに降りた。
「もう、そんなに慌てないで」
微笑みながらクロエ様が、マリエル様をたしなめる。花祭りを前にした街はどこか浮き立っている。
「ふふ、あの張り切りようだと時間がかかると思うけど、どうするルシアン?」
「そうだね。花祭り用のドレスの採寸と布選び……確かに時間かかりそうだね。見ていたい気もするけど、もしよければ、魔道具作りで買い足したい物があるから、先にそっちを片付けてきてもいいかな?」
「ええ、もちろんよ。グレゴリーは?」
「はい。私も買いたい物がございますので、少し場所を離れたく思います。買い終えましたら、すぐに戻ってまいりますので、よろしいでしょうか」
「ふふ、いいのよ。ゆっくり見ていらっしゃい」
そうして、クロエ様たちは服屋の中へと入っていった。私とルシアン様は、それを見送った後、自然と別行動になった。
「さて、行きますか」
自分に言い聞かせるように呟き、通りを一本外れた裏道へ足を向けた。賑やかな大通りとは打って変わり、ここは静かだ。古書店が軒を連ねる。
一軒の古書店を、建物の陰からそっと覗く。
ここは、アルフレッド様が働いている場所。扉が開くたびに見える店内には、事前に調べていたとおりアルフレッド様の姿は、見当たらない。少しだけ、肩の力を抜く。
私は店の中へ入り、隅に積まれている絵本の山から、一冊を静かに取り上げた。表紙には、見慣れた丸い文字。
「これですね。トトの新作は」
思わず表紙を指先で撫でてしまう。
「グレゴリーの買いたい物ってそれかい? 新作のトトの絵本だね」
「うわっ!」
背後から声がして、心臓が跳ねた。
「ル、ルシアン様!」
振り返ると、そこには微笑むルシアン様。いつの間に……まったく気配に気づかなかった。
「魔道具店へ行かれたのではなかったのですか?」
「そう思っていたんだけどね。欲しい古書を先に買おうと思ってここに来たら、偶然グレゴリーを見かけてね」
……本当に偶然だろうか。疑念を振り払うように、私はそっと絵本を元の場所へ戻した。
「あれ? 買わないのかい?」
「い、いえ。私もちょうど、本当にたまたまここを通りかかりまして。偶然、絵本が目に入っただけですので」
「そうなのかい? だって、集めているんだろう?」
「……え?」
――なぜ、それを。言葉を失った私を見て、ルシアン様は苦笑した。
「マリエルがね。君の部屋でトトの絵本を読んでいるだろう?」
ああ、これはもう、完全にばれている。
マリエル様に絵本が見つかったあの日は、私の不注意だった。机の引き出し――奥の、さらに奥。仕事の書類の下に、きちんと隠していたはずの絵本が、姿を覗かせていた。
気づいたときには、もう遅かった。
「グレゴリー、これなあに?」
部屋に遊びに来ていた、マリエル様が小さな手でそれを引き抜いている。ぱっと花が咲くように、彼女の顔が明るくなった。
「あれ? トトの絵本だ!」
「そ、それは……!」
思わず声が裏返る。奪い返そうとして、けれど大人げないと気づいて手を止めた。
「グレゴリー、これ読んで!」
「い、いえ、それは……」
まずい。非常にまずい。クロエ様に知られたら、もしかしなくても傷つけてしまうのではないか。
「なんで? だめ?」
「……」
マリエル様が、じっと見上げてくる。断れるはずもなかった。
「……分かりました。ただし、約束です」
「なあに?」
私は一度、深く息を吸った。
「読むのは、この部屋の中だけです。外には持ち出しません。それから、クロエ様たちにも言いません。約束できますか」
「うん!」
小さな手が、ぎゅっと絵本を抱きしめる。
私は廊下に誰も居ないことを確認し、扉を閉めた。部屋の中には、午後の柔らかな光だけが差し込んでいた。
頁をめくるたび、マリエル様は楽しそうに相づちを打ち、笑い、時折真剣な顔で絵を見つめる。
誰かに見せるつもりなど、なかったはずなのに。こうして誰かと共有するのも、悪くはない。でも――。
「本当に、本当に内緒ですよ」
「うん! 大丈夫。任せて」
その言葉に、私は少しだけ安心して、また頁をめくった。
◇
確かに、マリエル様には、クロエ様たちには内緒、と言った。けれど幼いマリエル様にとって“たち”の範囲に、ルシアン様が含まれるかどうか、その辺は曖昧だったのだろう。
完全な私の失策だ。
「ルシアン様……どうか、クロエ様には内緒にしてください」
必死に頼む。
「気持ちは分かるよ。でも、クロエは気にしないと思うけどな」
「そうだとしてもです」
もう一度、新作の絵本を手に取りそっと撫でる。
「ルシアン様。絵本というものは、手間がかかるので高価になりがちです。ですが、この絵本は何の儲けも出ないのでは、と思うほど安いのです」
「そうだね」
ルシアン様は、静かに頷いた。紙質も、装丁も、決して豪華ではない。けれど線は丁寧で、色は優しい。もっと、高くてもいいはずだ。
「アルベルト様は、時間があると、孤児院に通っておられると聞いています。きっと今日も行っているのだと思います」
たくさんの子どもたちに読んでもらいたいのか、貧しさに関係なく、誰の手にも届くようにしたいのか、それとも、ただ、そうしたかっただけなのか。安さの理由は、分からない。
「……少しでも、売り上げに貢献したいのです。それに、この絵本に出てくる“狐さん”が、どう描かれているのか、まだ出てくるのか……どんな台詞を言うのかどうしても、気になりまして」
狐さん。それは、私だ。アルベルト様にとっての“狐さん”。彼の目に、私はどう映っていたのか、それを知りたかった。
「私は買ってはいないけど、新作はチェックしているよ。狭量だと思われても仕方ないけど……クロエの元旦那だしね。私も、君とは違う意味で気になるんだ」
ルシアン様は、どこか苦笑を含んだ声で言った。トトの本はここでしか売っていない。そうか、そういうことか。
「……そうでしたか。そういえば、一冊目は、私たちに買ってくださったのに。その後のものは、買われていないのですね」
一瞬、迷ってから口にする。
「私には、必要ないからね。だって、気づいていたかい? この絵本、私は出てこないんだ。実はね、この新作には、マリエルが出てくる。ミミの子として。なのに、父親の私は出てこないんだ」
確かに、これまでの物語にも、ルシアン様の姿はなかった。
「きっと、トトのそばにいる親しい登場人物は、作者にとっての“家族”だけなんじゃないかな。私は、彼にとって家族じゃない。でもグレゴリーは、家族なんだ」
その言葉は、静かで、穏やかで、何とも言えない気持ちになった。私は絵本を、胸に抱える。
「……やっぱり、買ってきますね。実は、マリエル様に新作を読んであげる約束をしているのです」
「ああ、そうしてくれると、嬉しい」
たとえ狐さんが、これから先どんなふうに描かれていようとも、私は、これからも絵本を買おう。そう決めたのだった。
END




