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【書籍化】それでは、ひとつだけ頂戴いたします  作者: 楽歩


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書籍化記念SS 役目を終えていないから  アルベルトside


 倉庫の雑役、酒場の裏方、運送屋の臨時雇い。


 あまり役に立たず、どれも長くは続かなかったが、不思議と惨めさはなかった。


 汗をかき、指先を荒らし、日銭を得る。その繰り返しが、少しずつ私を人間に引き戻していった気がした。



 ある午後、荷運びの仕事を終え、賃金を握りしめたまま、雨宿りに入った店があった。看板は古く、文字もかすれている。


《ルーヴェル古書店》


 軋む扉を押すと、紙と埃の匂いがした。棚にある本をなんとなく見ながら店内を回る。ふと、私は、無意識に一冊の本が気になった。


 それは、画集だった。手に取り、1頁ずつ静かにめくる。


 時代遅れの構図、今では評価も高くない画家の画集だった。それでも、その筆致には、かつての私にはなかった覚悟がある。


 ――売れなくても、描き続けた者の線、か。



「その本、気に入ったのかい?」


 声をかけられて、顔を上げると、奥にいたのは、年老いた店主だった。ただ穏やかにこちらを見ている。


「絵描きかい?」


「……いいえ。違います」


 そう答えた自分に、驚きはなかった。否定しても、胸は痛まなかった。店主は小さく笑い、帳簿を閉じた。



「じゃあ、絵が好きな人だ」


 それから、世間話のように、ぽつぽつと話をした。


 店主は、人が急に辞めて人手が足りないこと。本を運ぶには力がいること。新しい人を探しているが、文字が読める人がなかなかいないことを笑いながら言った。


 古書店……。ここでなら長く働けるだろうか、そう思い、私は字の読み書きができること、次の仕事を探していることを店主に話した。



「そうか! 賃金は多くないが……どうだい、ここで働いてみないか?」


 返事は、すぐに出た。


「お願いします」


 こうして私は、古書店で働き始めた。本を磨き、棚を整え、客の探し物を一緒に辿る。そして、誰かの過去を支えた本を、次の誰かへ手渡す。


 店主は、人柄もよく、余計な指示を出さなかった。それもあって、思っていた以上に紙と向き合う日々は、とてもいいものだった。



「本はな、急かすと機嫌を悪くする。急いでも目的地には着くが、道中の景色は見落としてしまうぞ」


 紙が破れたり、背表紙が痛んだりしないように扱えということなのか、読んでいる側の心境を指しているのか、結論を急ぐなということなのか。


 その言葉の意味が分からなかったが、私は冗談とも教えともつかないまま受け取った。なんとなく、楽に息ができるようになった気がした。



 数日後、奥の倉庫の整理を任された。


 売り物にならない古文書、破れた詩集、誰にも読まれなくなったであろう本がたくさん出てきた。


 こんなに古いものをどうするんだろうか?



「捨てるなよ。修復が必要だが、本は役目を終えていない。」


 店主はそう言った。役目を終えていない……私は、その言葉を反芻した。


 必要とされていなくても、役目を終えていない。私に向かって、そう言われた気がしたのだ。そうか、評価されなくても、価値は失われない、か。




 ある日、大量の本を前に店主は言った。



「これを孤児院に運んでくれ。全部は多いか? そうだな、子ども向けの本だけ、この中から選んで持っていってくれないか」

 

 孤児院か。あまり、いい思い出もないのだが……。そう思いながら、本を選んだ。指定された孤児院は、王都の外れにあった。質素で、古く、しかし不思議と温かい場所だった。


 本を運び込んでいると、子どもたちが集まってきた。



「それ、なに?」

「本だ! でも私、字が読めないの。おじちゃん、読める?」


 私は、答えに詰まった。


「……一緒に、読もうか?」


 そう言うと、子どもたちは笑顔で床に座り込んだ。文字を追えない子もいた。途中で飽きる子もいた。


 そんな子に物語の内容が伝わるように絵を描いてあげた。上手ではない。だが、子どもたちは喜んだ。


 名前を呼ばれ、手を引かれ、「また来てね」と言われる。かつて、身分や虚勢と引き換えにしか得られなかった居場所が、ここにある、そんな気がした。



古書店で働き始めて、季節がひとつ巡った頃だった。私は、売り場の奥で、子ども向けの棚を整理していた。


 色褪せた背表紙、何度も開かれた跡のある本。その中で、初めて見る、絵がたくさん描かれた本があった。その本は、古い割にはとても高価だった。



「文だけではなく、絵もある本?」


 呟くと、背後から声がした。


「それは、絵本って言うんだ。子供向けだからって侮るなよ」


 店主だった。



「絵が語る文学だぞ」


 絵本か……。


 その夜、部屋に戻っても眠れなかった。私は、部屋に灯りをともし、壁に掛けてある『静かな夕暮れ』の絵を見る。サインが本物だと知ったのは最近のことだ。


 その後、机に向かいそっと、紙と、鉛筆を引き寄せる。頭に浮かんだのは『どうしようもなけど、憎めない存在。はちみつが欲しくて、約束を破るこぐま』



「……トト」


 理由は分からない。ただ、その名前が自然に落ちてきた。次に浮かんだのは、口うるさくて、お節介で、賢い妹。そして、トトが何度すねても、何度失敗しても、トトを抱きしめる母ぐま。


 ああ、口うるさいけど優しい狐さんも必要だ。


 書きながら、何度も手が止まった。紙が涙で濡れるたびに書き直した。




 翌日、私はその紙を持って、店に行った。


「絵本にしようと思っています。読んで、いただけますか」


 そう言う自分の声が、ひどく幼く聞こえた。店主は黙って受け取り、椅子に腰掛けた。途中で口を挟むこともなく、最後まで読み切った。そして、しばらく黙ったあと口を開いた。


「これは、良い子の話じゃないな。失敗する子の話だ。約束を破って、怒られて、それでも愛される話だ。……お前の話か?」


 店主は、私を見た。頷くことも否定することもできなかった。



「絵を……拙くても、描きます」


「そうか」


 店主は頷いた。



「時間がかかっても仕上げるんだぞ。できたらうちの棚に置くといい」


「いいんですか?」


 ここに、私の描いた絵本を置く。なんだか、光が差した気がした。




 休みの日、いつもとは別の孤児院に行くと、そこにはあのマリーがいた。胸に湧き上がったのは恋しさでも憎しみでもなかったのが意外だった。


『時間の流れというのは、温かく残酷なものだ』私はいつか見た本の文面を思い出した。



「私は、いつか子どもたちのための絵本を作ろうと思ってる」


「ふふ、それ、いいかもしれないわね。絵は、上達したのかしら?」


 そう言って、マリーは笑っていた。




 数ヶ月後、簡素な装丁の小さな絵本ができた。


 タイトルは『こぐまのトトのお約束』


 古書店の片隅に、その絵本はそっと並べられた。名もない元男爵が、名もない場所で書いた一冊。


 マティアスの絵のように、いつか誰かの心に響いてくれたらそう願った。



END



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