≪10≫
再び、暗闇の世界。
しかし、今度は肉体の感覚がある。
誰かが、僕の右手に触れている、感覚。体温も感じる。
ゆっくりと目を開いてみた。
そこには、意外な人がいた。
真奈美だった。
こちらを、見つめている。
「気がついた?」
そう言うと、真奈美は少し微笑んだ。
痩せたな、と思った。
それと、長かった髪が、肩までの長さになっている。
「ちょっとまっててね」
真奈美は立ち上がると、部屋を出て行った。…ここは病室みたいだ。点滴が見える。
左手を持ち上げると、腕に針が刺さっていた。
遠くで、「先生、渡辺さんが目を覚ましました」という声が聞こえてきた。
再び足跡が近づいて来て、真奈美の顔が視界に入る。
「どうして、ここにいるのか分かる?」
「料理屋で、酒を飲んだのは憶えてる」
「急性アルコール中毒ってことで、救急車で運ばれてきたの…。ここは『木之上産婦人科』です。近くで、観光バスの事故があって、救急病院が患者さんでいっぱいなんだって。そこで、たまたま、うちに先生が待機してたから、ここに運ばれてきました。症状はそんなに重くないから、とりあえず点滴だけで良いって先生が言ってた。あと、トイレの方は大丈夫ですか?」
「大丈夫だと思う」
「男性のカルテを作ったのは、開院以来初めてだって」そう言って真奈美は笑った。
「渡辺さん、どうしてここに?」
「急性アルコール中毒で…」
「違います。どうして北海道に居るんですか?」
「それは、ぼくも聞きたい。京都じゃなかったの?」
「そうですね…。まず、私から説明しなくちゃいけないですね…」
真奈美から聞いた話は、夢の中の男の話と一致していた。
結婚のこと。
家庭内暴力のこと。
父親がある日突然やってきて、自分を連れ帰ってくれたこと。
ここまでは、聞いていた。
その後は、亭主から逃げるために、父親の主治医の友人が経営するこの病院で、北海道まで来ていること。
そして、彼女の本名は三条真奈美であること。
僕は、会社を辞めることになったこと、それで北海道旅行を思い立ったことを話した。
「救急車で運ばれてきたのが、渡辺さんで、本当に驚いた」
「うん。ぼくも驚いた…。ところで先生にお礼を言わなきゃ…」
「先生は分娩室なの。今日、出産予定の人がいて、それで病院に居たわけ」
「ああ、そうか…」
「トイレは大丈夫ですか?点滴は、血中のアルコールを抜くものなんですって。だからトイレに行きたくなるだろうって…」
「じゃ、行っておこうかな」
「起きあがれますか?」
背中を支えられ、ゆっくり起きあがる。もうかなり気分はすっきりしていた。ベッドから立ち上がると、真奈美は僕の右腕を掴んだ。ふらつきはないが、このまま甘えることにする。何度かデートをしたけど、手に触れたこともなかった。
点滴スタンドを左手で押し、右側を真奈美に支えられながら、トイレまで連れて行って貰った。
再びベッドに戻ると「朝まで、ゆっくり休んでください。私はお手伝いをしてきます」
そう言いながら真奈美は、小さく手を振り、部屋を出て行った。
そんなことを言われても、真奈美の顔を見た瞬間、一気に、目も酔いも醒めてしまったようで、とても眠れそうにない。
それに混乱している。
夢の中の男は何者なんだろう。
実在の人物なんだろうか。
もし人間が、夢から人を操ることができるなら、"神"にでもなれるのではないか。
そして、真奈美とはどういう関係なんだろう。
そんな思考が頭の中でぐるぐると廻り、答えの出ぬまま、意外と早く睡魔はやってきたようで、いつの間にか眠りに落ちていた。




