≪9≫
暗闇だった。
重力感がなく、上も下もよくわからない。
しばらくすると、周囲の様子がおぼろげに見えてきた。
以前に見たことがある。
ここは、半年前の夢に出てきた図書館だった。
状況が把握できず呆然としていると、どうしても思い出せなかった、あの夢の続きが、頭に浮かんできた。
「ここは貴方の図書館ですよ」
そう背後から声がして振り返ると、そこには、やや面長の顔に、強いウエーブのかかったの長髪、小さな丸レンズの眼鏡をかけた、三十代後半くらいの男が立っていた。
「こんにちは、はじめまして」と男は微笑む。しかし、口は動いていない。
「誰?」そう言おうとしたが、声が出せない。
「ここでは喋ろうとしなくても大丈夫です。お互いに考えれば通じます」そして「少し説明させてください」と男は言った。
「ここは貴方の記憶を司る機関です。貴方の頭の中であることは間違いありません。もちろん頭の中に図書館があるわけありません。この映像は貴方の記憶を私がビジュアル化させたもので、それを貴方に見せています」
男は、壁の本棚に歩み寄り、視線を本に向けたまま話を続けた。
「非常に記憶が理路整然としています。こういう人は総じて頭の回転が良い。頭の悪い人は記憶の整理が拙いから、せっかく記憶しても上手く活用できないのです」
「人は夢を見ているときに記憶の整理を行います。この部屋に例えるならば、人が起きている間の記憶はこの部屋の中に一時的に蓄えられます。しかし容量にも限度がありますから、長時間起きていると、ここは一杯になって入りきらなくなります」
「そこで脳は眠れという指示を出します。ここの記憶を記録する作業のために…。眠っていても、記憶を記録させるためには、脳を活動させねばなりません。だから夢を見せます。夢を見ることで脳を働かせながら、その一方で、"一時的な記憶"を、ここにある本に"記録"していく作業を行うわけです」
「ところで…」
男は、部屋の反対側へと歩き出す。
「鳥や魚が群れをなして行動するとき、個々の個体が自我の判断で行動していると思いますか?」
「人間には、"意識"と"無意識"があります。さらに"集合的無意識"というものも存在すると言われています。鳥や魚が見事な隊列を組んだり、急に進路を変えても乱れないのは、その群れ全体が共有する、一つの"意識"が存在すると思うのです」
「人間は、自我という"意識"が発達しすぎて、"集合的無意識"というものを必要としなくなったのではないでしょうか。しかし、人は"意識"のずっと深い場所で繋がっています。ちょうど家々が独立して建っているように見えても、下水道のようなライフラインから見れば、家同士は全部が繋がっているのと同じように、です」
男は、反対側の本棚まで移動すると、また踵を返し、今来た方へと歩き出す。
「その証拠に、私はその場所を通って、ここに来ているのですから…」
男は、歩みを止め、こちらを向いた。
「なぜ、そんな説明をあなたにしたかというと、あなたに信じて欲しいからです」
「私がここに来た理由。実は、貴方にお願いがありました」
「真奈美さんを覚えていますね。夢の中で新幹線から出てくるはずだった人です」
「貴方に、彼女を、救って貰いたかったのです」
「他人のプライバシーを勝手に話すのは気が引けるのですが…。実は、彼女は、京都のある老舗料亭のお嬢さんです」
「ところが、その老舗料亭の経営状態は芳しくなかった。そこへ、同じく京都の、ある下品な外食チェーンの経営者が、資金援助と引き替えに、うちの馬鹿息子の嫁に真奈美さんをくれないか。そう持ちかけたわけです」
「真奈美さんは…、両親に頼まれて断ることができなかったのです。そして、もう貴方に会いには行けなくなりました。心当たりがありますよね?」
「しかし、この馬鹿息子。結婚しても、外で女遊びを止めないどころか、家では真奈美さんに暴力をふるう毎日。そこで、貴方に真奈美さんを救い出して貰いたかった。というわけです」
「どうして、貴方を選んだのか…」
「それは、真奈美さんの記憶の中で、貴方しか頼れる人が見つからなかったのです」
「それであなたの所に…、つまり、ここに来ました」
「夢の中では、新幹線から真奈美さんが登場する手筈でした。しかし、貴方の"無意識"に拒まれました。予定では、あなたに助けを求めて貰うつもりだったのです。もちろん、それで、あなたが動くか動かないかは、賭けですがね」
「さすがに、拒まれた以上、無理なお願いは出来ません。私は諦めようと思いました。ところが、私の未熟さゆえに、貴方の夢から、ここに繋がる道を作ってしまっていた。本来、ここは危険な場所です。"意識"が進入して良い場所ではありません」
男は、奥にある明るい部屋を指さした。
「ここから向こうに行ったら、帰還は非常に困難。二度と目覚めることはないかもしれません」
「真奈美さんのことは、私が、次の手を考えます」
「あなたは、今すぐに元の場所へ引き返して貰えませんか。あと、申し訳ありませんが、私とのことは、一切、記憶には残らないようにしておきます…」
戻れと言われても…、いま来た道を帰るのか?
長いプラットホームの風景が頭を過ぎる。
真奈美のことをもっと聞きたかった。
僕はどうすればいいのか。
次の手は何か考えがあるのか。
真奈美は本当に大丈夫なのか。
そう考えながらも、なぜか男の促すままに、僕は図書館を出ようと…した、ところまで思い出した。その時…。
◇
「驚きました…」
振り向くと、奥の部屋に、あの男が立っていた。
「この図書館は、私が作ったビジョンと変わりない」
そう言いながら、男が近づいてくる。
「ここに来てはいけないと言ったのに、、、まぁ、憶えてないので仕方ありませんが…」
男は、辺りを見回し言った。
「ふむ、すっかり思い出して、しまったようですねぇ」
ずっと、僕の中に侵入していたのか?…そう問いかけようとすると、
「いえいえ、ここに来るのは二回目ですよ。今回は、貴方がここで、私の事を考えていたから、私に届いたのです。私もずっとこの世界にいるわけではありません」
「そうそう、真奈美さんの事は、もう心配いりません」
「次の作戦は成功しました。結局、真奈美さんの父親に、彼女が亭主から暴力を受けているイメージを送ってみたら、慌てて救い出してくれました。彼女は、無事保護されています」
ホッとした。
男は、眼鏡の位置を直すような仕草をし、続けた。
「結果的に、貴方には迷惑をかけてしまったようです」
…迷惑?
「仕事のことですよ。辞められてしまったのですね。記憶には残らないようにしましたが、"無意識"の中には残ります。それが作用した可能性は充分に考えられます」
「何か、…それが何かは判らないまでも、『何か』をしなければいけない気がした。…そんな気がしたのではありませんか?」
「あと、、、お願いできる立場ではありませんが、なるべくなら、私とのことは、人に話さないようにお願いしたい。信じる人は少ないでしょうが…」
…この前のように、記憶から消さないのか?
「もう消せないのです。状況が違います」
「お分かりでしょうが、ここは危険です。この前のように、そろそろお戻りください」
まだ聞きたいことはあったが、なぜかこの男の指示に従ってしまう。
それに、前回、どうやって戻ったのかまで思い出せてない。
とりあえず、図書館から出るしか…。
出口に向かった。
いつぞや入ってきた時の、ガラス戸を開く。
そのとき、後ろから、男が何かを言ったような気がした。




