≪11≫
ふたたび、目が醒めたときには、部屋はすっかり明るくなっていた。
一瞬、どこからどこまでが夢だったのだろうかと考えたが、病院の中なのは間違いなさそうである。
辺りを見回すと、いつの間にか点滴は片付いていた。夜中は病室だと思っていたが、病室とはどうも雰囲気が違う。スタンド式のブラインドカーテンの向こう側には、ファイルキャビネットがあり、薬品の箱らしきものが収まっていた。ベッドも幅の狭い簡易用という感じがする。考えてみれば、男を産婦人科の病室には入れらるわけないよな…。
点滴の効果かトイレに行きたくなり、ベッドからゆっくり起きあがる。
産婦人科をうろうろすると拙いかな。と思って、廊下の様子を伺う。人影はないみたいだ。
トイレを済ませ、廊下の先に待合室のようなスペースが見えた。
待合室のソファーには、緑色のオペ着のようなものを着た男性が横になっていた。この人が先生か…、真奈美に、父親の主治医の友人と聞いていたから、もっと高齢な人を想像していたが、まだ四十代そこそこに見える。さて、これから、どうすべきか、とりあえずホテルにに戻りたいが、黙って帰れない。
所在なく、待合室をうろうろしていていたところ「ん?…ああ、君か、気分はどう?」気配を感じて目を覚ましてしまったのか、振り向くと、医師は眠そうに片目だけ開けていた。
「はい。おかげさまで。ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」と頭を下げる。
「三条君の知り合いなんだってね」
「面識がある程度…ですが…。あの治療費の方は、まだ会計は開いてませんよね」
「ああ…、いいよ。たいした処置はしてないし、知り合い特価だ。三条君は嬉しそうだったし…」
「そういうわけにはいきません。きちんと払わせてください」
「じゃ、会計が開くまで待っててくれないかな」
「はい。あのその前に宿泊先のホテルに行ってきたいんですが…」
「どうぞ…」
玄関まで行くと、僕の靴があった。
現在地が判らないので、携帯電話のGPSで測位してみた。ホテルまで歩けないこともないが、そこそこの距離はある。タクシーを呼ぶことにした。
受付に貼ってあった地元タクシー会社の番号を携帯電話に入力し、医師の方を見ると、もう寝息を立てている。小さな声で「いってきます」と告げ、外に出て電話をかけた。
◇
ホテルに到着し、着替えを済ませた後、その後、昨晩の料理屋まで歩いたが、案の定「支度中」の札がかかっていた。やはり夜にならないと無理かもしれない。
時計を見ると、まだ午前七時を回ったところだ。まだ病院の診察が始まるには時間がある。
ホテルに戻って、朝食をとることにした。ついでに連泊を予約しよう。
ホテルのレストランに入り、少し、頭を整理しようと考えた。昨日の夜の続きだ。
まず夢の中の男だ。何者なのだろう。
自分の中の、もう一つの人格という可能性までは眠る前に考えた。
しかし、あの男が真奈美について語った内容は、僕自身がまだ知らなかったことにも関わらず、かなり正確だった。
人に夢を見させるようなことも言っていた。それによって相手の行動をコントロールできるようなことも…。使いようによっては、恐ろしい"力"じゃないか…。
そもそも、こんな所で、真奈美に偶然再会するなんて出来すぎている気がする。
もしかしたら、北海道に来ることも、ここに至るまでの道のりも、すべてあの男の筋書きだったとしたら…。考えすぎだろうか?
北海道に来たこと。網走まで来たこと。それは、まだ良い。自分の意志だ。
しかし、ここ網走で酒を飲んだのは、半分は自分の意志じゃない。それに普通は救急車で産婦人科には搬送されないだろう。たまたま大きな事故があったせいだ、と言っていたが、それが全部仕組まれていたとしたら…。そう考えると、恐ろしくなる。
全ての出来事が、あの男にコントロールされていたなんてことは…。
考えすぎだと思いたい。すべてが偶然だったと…。
ふいに、荒木美晴の言葉を思い出した。
「北海道の反対側で出会えたら、運命だと思いませんか」
運命か…。真奈美に会えたことは、運命なのかな。
◇
午前九時を少し過ぎた頃に、木之上産婦人科に到着した。
玄関を入ると、待合室にいた女性が一斉にこちらを見る。非常に居心地が悪い思いを噛みしめて、まっすぐ受付に行き財布から保険証を出して、訊ねた。
「すみません昨晩お世話になった渡辺ですけど、会計の方は出来ますか?」
「ああ、渡辺さんですね。先生がお話があるそうなんですけど、少しお時間はよろしいですか」
「はい、わかりました。大丈夫です」
そう答えると、受付の女性は事務室の裏側へ走るように消えていった。
そのまま受付の前で突っ立っていると、受付横でパソコンを叩いていた事務員が、横目でちらりとこちらを見て、「お掛けになってお待ちください」
さすがに待合室は居心地が悪いので、廊下に置かれた長椅子に腰掛けた。
数分後、診察室から女性が出てくると、診察室の隣のドアから看護師が顔を出した。
「渡辺さん、こちらへ」
部屋にはいると、今朝会った医師が、ちょうど部屋の奥からやってきた。
「実はお願いがあるんだ」
医師はそう言うと、どうぞ、と椅子を勧められる。
「考えたんだけどね…。今日一日、三条君を連れ出してくれないかな。彼女はここに来てからも鬱ぎ込んで、よく手伝ってはくれるんだけど、外に出ようとしない。そこで、君にエスコートを頼みたい」
白衣のポケットから封筒を出し、机の上を滑らすようにこちらに差し出した。
「これは軍資金。君の治療費もチャラだ」
医師の顔に視線を戻し、「申し出は、快く引き受けます。でも、お金は、僕に出させてください。治療費の方だけお言葉に甘えます」
そう言ったところで、傍に立っていた看護師が部屋の奥に消えていった。
「クルマはあったんだっけ?」
今度は、白衣のポケットからクルマのキーを出した。
「はい。レンタカーで回ってますから」
「そうか、じゃお願いするよ。女性だから、準備に時間がかかるかもしれないが、玄関の所で待っててくれるかな」
「わかりました」そう言って、席を立つ。
部屋を出ようとしたところで、後ろから「頼むよ」と声をかけられた。
ぼくは振り返ってお辞儀をした。
◇
10分ほどして、看護師に促されるように、真奈美は玄関に現れた。真っ白なワンピースが彼女のイメージによく似合っている。
僕が助手席側のドアを開くと、オドオドした様子で近づいてきて、深々とお辞儀をする。
「よろしくお願いします」
なんだか、昨日の夜よりも表情が硬い。
僕は、ニコッと笑って見せた。
「こんな風に、またドライブできるとは思っていなかったよ」
そう言うと、真奈美は、
「ごめんなさい」と呟く。泣きそうな声だ。
あ、今のは拙かったかな、、、そう思ってももう遅い。それでも、明るく努めることにした。
「ここの地理には詳しくないから、定番の屈斜路湖、摩周湖、阿寒湖めぐりでいいかな」
(昨日、周ったばかりだけど、ちょうどいい下見が出来たと思えばいい)
「お願いします」
横目でちらっと見ただけでも、全身が硬くなっているのが判る。
「もしかして、出てくるの嫌だった?」
「そんなこと、ないです」「でも…」
「戸惑ってる?」
真奈美は頷く。
「僕は、素直に嬉しいよ。また会えて…」
真奈美から出ていた緊張感のオーラが和らいだ気がした。この調子だ、と感じた。
「怒ってないですか?」
「うーん、会えなくなって、ちょっと寂しかったけど、まったく怒ってない」
本当は、ちょっと、どころではなかったけど。
「昨日の夜は、会えて嬉しくって…、でも、あとで考えたら、私はずいぶん勝手なことをしてて…」
ようやく、真奈美は自分から話し始めてくれた。
「僕は全部話してくれて、ずいぶんスッキリとした。正直、もしかしたら、僕が失礼なことをしたのが原因じゃないかって、それだけが気がかりだった。でも、そうじゃなかったと判ったことだけで嬉しい」
「私だったら、怒ってたかも…」
「そりゃそうだ。こんな美人をふる男は、怒られていい」
「そんな…、オーチャンさんだって素敵ですよ」
"オーチャン"というのはネットで使っていたハンドル。洋一の「洋」からオーシャン、訛ってオーチャンにした。"渡辺さん"から"オーチャンさん"に変わったのは、くすぐったい反面、嬉しくもあった。名古屋で会っていたときは、そう呼ばれていたからだ。でも、"ちゃん"に"さん"付けはしっくり来ない。ハンドル命名のミスだった。
「ひとつ、聞いてもいいかな」
「なんですか」
「そもそも、あの頃どうして、僕なんかに会おうと思ったの?」
「私は、子供の頃から親の躾が厳しくて…、特に父が頑固で、父が決めたことしか出来なかった。やらせて貰えなかった…。自分の選択は、何一つ認められなかったの…。大学生になって、家の経営が厳しくなったのもあるけど、父の、監視の目が緩んだの…」
真奈美は、とぎれとぎれになりながらも話し続けた。
「いろいろな人のブログに書き込みしました…。その中でオーチャンさんは良い人だ。私だって人を見る目はあるんだって…証明してみたかったの、自分自身に…。それで名古屋に行ってみたんです…」
「なるほど、謎はすべて解けたよ」
「謎だったんですか…?」
「謎だった。実はね、僕は、知り合いがたまたま僕のブログを見つけて、からかっているんじゃないかとずっと疑ってた。女子大生が、へたれなブログに興味を示すわけがない。だから現れた君を見てびっくりした。でも、こんな娘が会いに来てくれる理由がわからなかった」
「そうだったんですか」と、真奈美はようやく笑った。
「で、僕がもし悪い人だったらどうしたの?考えてた?」
「考えてなかったです。信じてたから…」
その言葉に、不覚にも目頭が熱くなるのを感じた。
屈斜路湖では、真奈美はアイヌの民芸品に興味津々。相変わらず、ひとつのものに興味を持つと、まるで子供のように無防備になる。
「フクロウはね、日本では"不苦労"で"苦労がない"、欧米では幸せを運ぶ鳥とも言われているんだ」
そう言って、木彫りのフクロウを真奈美にプレゼントした。
次の摩周湖はさらりと流した。見物できる場所が少なく、間がもたない。
阿寒湖で、食事を済ませてから、遊覧船に乗り、マリモの展示館に行ってみた。まるで子供のように、水槽のマリモをじっと見つめる姿は、初めてあった日の水族館での様子を思い出す。
その後、お土産屋をのぞいて、病院スタッフへのお菓子を買った。
◇
帰り道、すっかり昔の真奈美に戻ったような気がしたが、しかしどうしても聞きたいことがあった。
「院長先生、いい人だね」
「はい。みんな、すごく優しい」
「これから、ずっと北海道で暮らすの?」
案の定、空気が淀むのを感じた。
「ううん、まだ判らない。どうなるか…」「京都には帰りたくないな…」
やはり、聞かない方がよかったかと思った。
そのとき、「名古屋に行こうかな…」と、真奈美はぽつんと呟いた。
それって、その、つまり、そういう意味なのか?…予想外の返答に、思わず『来年は無職』というキーワードが頭の中で膨張する。
しかし、「来てくれると、嬉しいな」「今すぐは無理でも…、それに、僕も来年は無職で…。そうならないよう、これからいろいろ頑張らなきゃならない。でも、いつか来てほしい」
「私も、がんばる」
フクロウのお土産を渡したとき、ふと思い出して、鞄の中から出して用意しておいた"幸福行きの切符"を真奈美に手渡した。
「名古屋までの切符は、今度用意するよ。今はこれで我慢して」




