≪12≫
木之上産婦人科に帰ってきた頃には、日は暮れかかっていた。
玄関横の窓の明かりの中で人影が動いたのが見えたと思ったら、病院のスタッフがぞろぞろと玄関から出てきた。遅くなったので、心配させちゃったのかなと思ったが、病院の看板には照明が点いているし、それを見ると、まだ診療時間内のはず。
出てくるスタッフを見つけた真奈美は、弾んだ調子で「行ってきます」と言い、クルマを降りてスタッフの方へ駆けていった。スタッフとじゃれ合いながら、木彫りフクロウのお土産を、包装されたままみんなに見せている。
僕は、クルマを降りたところで、その様子を眺めていた。
わいわいと盛り上がっている様子で、何を話しているのかは判らないが、良いムードのようだ。一安心。
気付くと、院長先生も出てきていた。こっちに向かってくる。真奈美の話によると、森下先生というらしい。病院の名前は、「森の下だから、木の上でも同じだろう」というトンチだそうだ。
「想像以上に上手くいったみたいだね」
「おかげさまで…、最初はカチコチでしたけど」
「ありがとう。それで、これからどうするの?」
どっちの意味で聞かれたのか判らなかったけど、おそらく両方だろう。
「彼女とは、これからも連絡を取ろうと話し合いました。僕は、そろそろ名古屋に帰らないと…」
「名古屋なの?京都で知り合ったわけか…」と少し驚いた様子。
説明すれば長くなるので、そのまま流すことにする。
「急いでいたのに、今日は悪かったね」
「いえ、そんなことはありません。今日がなければ、どん底の気分で帰るところでした」
正直、急ぐ理由はなかった。もちろん逃げるつもりはない。
ただ、自分自身が混乱している。夢の中の男のことも含めて。一旦は、離れて冷静に考えたいという気持ちもあった。
「三条君の…これまでの経緯は知っている?」
「はい。聞きました」
「名古屋なら都合がいい。このまま逃避行しちゃってもいいんじゃないか」院長は、あっさりと言い放った。
「それじゃ筋が通りませんし、先生の立場も悪くなりませんか?」「それに、実は、僕は来年から無職なんです。それを何とかしないと、責任が持てない」
その返答は、予想外だったらしく、院長は真面目な顔になった。
「そうなのか…。ならば、どうかな、北海道で職を見つけるというのは。私も微力ながら、心当たりを探してみるけど」
ガソリンスタンドの店長の笑顔が頭に浮かんだ。
「ここまで来る道中で、それも少しは考えました。いろいろ考えるつもりで北海道に来たけど、考えることの多さに気付いて、今は少々オーバーフロー気味です」
「そうか。まぁ、その気になったら、彼女の父親には私からも話すよ。一応、連絡は取り合っているんだけど、話に聞いてたよりは、その、だいぶ弱気になっているようだ。彼女が元気になったことを伝えれば、喜ぶだろう」
「よろしくお願いします」
「それで、今から発つのかい?」
「いえ、今日は昨日のホテルにもう一泊することにしました」
「それじゃ、我が家で食事でもしていってくれないか、実は準備だけは出来ているんだ」
この流れで固辞するのも気が引ける。
「よろしいんですか、お言葉に甘えても」
「そうしてくれないと、料理が無駄になってしまう」
「では遠慮なく、ご馳走になります。でも、その前に、昨日の料理屋には代金未払いのままなんです。行ってこないと」
「午後八時にここに来られるかな。家は病院の裏手にあるから」
「はい。行ってきます」クルマに乗り込もうとして、思い立った「あの、アルコールだけは、もう控えようと思ってますから…」
院長はニヤッと笑った。
◇
クルマを料理屋まで走らせた。
店は営業中になっていたので、商店街の駐車場にクルマを停めて、料理屋まで歩く。
扉を開けると、昨日より時間が早いせいか、客はまばらだった。
「いらっし…、あらー、大丈夫だった?昨日はごめんなさいね。無理にお酒を勧めたから…」
「いえ、いいんです。それより、お勘定を払ってなかったので戻ってきました」
「いいのよ、お詫びの印。病院代かかったんでしょ」
「実は、今日一日、網走に滞在することになったおかげで、懐かしい旧友に会えたんです。救急車で運ばれたおかげです」と言って、笑った。
「へぇー」と、女将さんは目を丸くして驚いた表情。でも、ちょっと演技臭い。きっと、いつも客相手にやっているせいだろうな。
「昨日のお勘定は受け取れないわ。でも今日は別。もし、よかったらどう?」
「ごめんなさい。これから旧友の家に招待されているんです。また近いうちに網走に来ることになりそうなので、そのときはぜひ」
「ごひいきに。お友達によろしくね」
「ごちそうさまでした。また来ます」お辞儀をして、店を後にする。
◇
再び病院に戻ると、まだ七時半だった。病院の明かりは消えていたが、まだ30分もある。
緊張感をほぐすために、クルマを降りて深呼吸。あたりの風景を見渡した。
夜の空気が冷たい。北海道に来て何度も感じたが、改めて実感した。
病院の奥から、カタカタという、ゲタのような足音が小走りに近づいてくるのが聞こえた。
真奈美だった。
「おかえりなさい」
いきなり、僕の右手を両手でつかみ、引っ張ろうとする。
「行こっ」
「まだ早くない?」
「大丈夫」
引っ張られた先は、病院の通用口のような扉だった。玄関からじゃなくて大丈夫なのか?まぁ、真奈美の履いている木製のサンダルは、どうみても玄関のものではなさそうだ。
通用口から、細長い廊下を奥に進むと、突き当たりは扉になっている。
真奈美が扉を開くと、無機質な病院の廊下から、普通の家の風景が見えた。
職場と家庭が直結か。これは、ちょっとした『どこでもドア』だな…。
客間とおぼしき和室に通されると、テーブルにはすでに料理が並べられ、その奥で院長が胡座をかいていた。
「おかえり。こちらにどうぞ」
と、院長の隣の席を勧められた。
その隣には、屈斜路湖で買った、木彫りのフクロウが鎮座している。真奈美の席か。
そのまた隣には、今朝、受付で対応してくれた女性が座っていた。軽く会釈をする。
「失礼します」と、与えられた席に着いた。
テーブルの反対側では、中学生くらいの女の子と、小学校高学年くらいの男の子が、興味深げにこちらを見ている。院長のお子さんだろうな。
「こんばんは」と子供達に挨拶すると、女の子ははにかみながら、男の子は元気よく挨拶を返してくれた。
「北海道では、何を食べた?」
院長に聞かれ、北海道に来て、北海道らしきものは何も口にしていないことを告げる。
「北海道に来て、それは勿体ないぞ。今日に限っては、それも好都合だがな」
ちょうどその時、奥さんらしき人と、真奈美が料理を運んできた。
僕は思わず立ち上がり、「お邪魔してます」と頭を下げる。
「そんなに畏まらなくても、普通でいいぞ」と院長につっこまれた。
「何を食べたのか判らなかったから、一揃い揃えてみた。今日は全部味わってくれ」
カニ、イクラ、ジャガイモ、トウモロコシ、…と豪勢だ。ありとあらゆる北海道名産品を本当に揃えてくれたみたいだ。
得体の知れない器具もある。それを眺めていると、「これはジンギスカン鍋だ」と教えてくれた。
真奈美は横に座ると、フクロウを膝の上に乗せ、ちらりとこちらを見たが、受付の娘と仲良く話し始めた。「あーあ、これでまた独り者は私だけか」という声が聞こえてきた。
僕はというと、院長の質問攻めにあっていた。時折、北海道名物料理の蘊蓄を挟みながら。ラム肉を食べたのは初めてだったし、何より、カニの甲羅の中が食べられるのを、恥ずかしながら初めて知った。
どうやら、院長は、僕と真奈美は京都で知り合い、僕が真奈美を追いかけて網走まで来たという筋書きを想像していたらしい。
真奈美が名古屋まで来ていた意外な行動力と、僕は真奈美が北海道にいることなど全く知らず、北海道旅行を考えたことや、網走まで来たこと、すべてが偶然だったことに、院長夫婦と受付娘は驚いていた。(もちろん、網走で彷徨いていた理由については伏せておいたけど)
「それは、あれだ、"赤い糸"だな」と院長。
「そんなことも、あるんですねー」と院長夫人。
右肩に柔らかな感触。右を見えると、真奈美が受付娘に"突っ張り"の浴びせ倒しを喰らっていた。
小っ恥ずかしさを感じながらも、「僕もいまだに夢じゃないかと…」と答えた。
◇
すっかり院長と話し込んで、気がついたら午後九時を大幅にまわっていた。
食事に招いて貰ったことに礼を言い、そろそろホテルへ帰ることにした。
駐車場まで、一人で見送りに来てくれた真奈美に「明日、発つ前に、また会いに来ても大丈夫かな?」と聞いてみる。
「はい」と言って頷いた。
これからの事を、今晩いろいろ考えて、それから話したいと思った。すべて論理立ててからでないと口に出せない性格。今までの人生では、それが最良で、自分の長所だと思い込んできた。でも、自分の悪いところでもあるかもしれない。今後の検討課題に加えよう。
ここで彼女にキスの一つも出来るスマートな男だったら、どんなに良かったことか…。
"不器用ですから"…そんなセリフが代名詞になっている名俳優の代表作は、ここ『網走』が舞台だったっけ。
せっかくのムードなのに、思考が関係ない方向に飛びまくっている。これも悪い癖だ。
結局、真奈美の手を握るのが精一杯だった。
「じゃ、また明日」
そう言ってクルマに乗り込んだ。
クルマをホテルに向けて走らせながら、大学時代、これと同じ失敗をしてたのを思い出す。相手からデートを申し込まれ、その日にふられた。仲介した友人に言われたっけ…。
「おまえ、何もしなかったのか?」
同じ過ちを繰り返したような気がする…。




