197 少女の笑顔と失われた記憶と私
「恐れ入りますが、アル様でいらっしゃいますか?」
「……はい、私がアルです」
「我が神、ヴァルハラの御許へようこそお越しくださいました」
青い衣をきたシスターが、恭しく頭を下げる。「うむ」とヴァンが威厳に満ち溢れた表情で頷くが、今はちびっ子少年だ。思わず吹き出しそうになって、アリオスと一緒に視線を逸らせてしまう。
「副ギルドマスターのジェシカ様より、アリオス様と一緒に本日アル様がお越しになると伺っておりました 私は、ここの責任者で、名をマリアベルと申します」
なんとも威厳のある風格だ。「厳しさの中に優しさがある」それを地で生きているような第一印象を受けた。
私たちは席をたち、マリアベルの誘導のもと教会の執務室へと案内された。
マリアベルの執務室は、綺麗に整理整頓されていて、机の上にも書類が積み重なっていない。ギルマスの、いつ雪崩が起きてもおかしくない机とは大違いだ。
「こちらは、この教会の菜園で育てましたハーブを煎じたお茶でございます どうぞお召し上がりください」
ソファーにアリオスと並んで座ると、マリアベルがお茶を用意して私達の前に差し出した後、向かいのソファーへゆっくりと腰掛けた。
マリアベルに勧められ、カップに手を取り口をつけてコクリと一口含む。鼻に抜ける爽やかな香りが心を落ち着かせる。風味豊かな味わいに思わず笑みが溢れた。「悪くない……」アリオスも鼻先で香りを楽しむように満足げな表情をしている。
「アル様 まずは、あの子をあの凄惨な場所から救い出してくださったこと……この教会の責任者として、そして同じ女性として、心より感謝申し上げます」
マリアベルも救出されたばかりの少女の姿を知っているのだろう。泥だらけで、汚物に塗れていた十歳になるかならないかの悲惨だった状態は、今思い出しても心が痛くなる。
「彼女は……その後、元気にしてますか? 記憶を失ったと聞きましたが……笑えてますか?」
私の質問にマリアベルが、少し驚いた様子で大きく瞳を開いた。
「ええ……最近は、よく笑って過ごしてますよ」
「よかった……笑顔は失われなかったんですね」
笑えている……その言葉を聞けただけ、私はここに来て良かったと思った。アリオスと繋ぐ手を強く握り返す。あの少女にも、私と同じように暖かな居場所がきっと作れるはずだ。
「あの娘は……自分の名前しか思い出せなかった……私たちは、彼女をあるべき場所へ返してあげたいと考えております そのためにも失われた記憶を呼び覚ましてあげたいのです」
「え!? どうして?」
失われた記憶……私は思い出す必要はないと思う。私の反論に、驚いたマリアベルが、私を見つめたまま言葉を失った。
マリアベルの言葉に悪意なんて微塵もないことは、わかっている。だけど、マリアベルは、今、笑顔を取り戻している少女が、家族の元に帰りたいと望んでいるとは言わなかった。
「少女の家族が……今も探しているかもしれません」
「どこで? そんな捜索願が出ているの?」
マリアベルが、ゴクリと息を飲んだ。
「いえ……そのような情報は、頂いておりません」
マリアベルの指先がわずかに震え、膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめた。マリアベルが、苦悶に満ちた表情を浮かべ、首を振る。
「お言葉を返すようですが、彼女が記憶を呼び戻せば、家族への手がかりが見つかるやもしれません」
「だから、どうして? それが彼女の笑顔を守る理由にはならないよね?」
声は静かなのに、胸の奥でじわりと熱い怒りが広がっていくのが自分でも分かった。
記憶を戻して何になる? マリアベルは、救出された少女を知っている。だけど、救出されたのは、少女だけだった。
私の言葉にマリアベルの顔から血の気が引いていく。厳格でも優しさを持ち合わせた人なのかもしれない。だけど、私にはただの希望的観測にしか聞こえなかった。
「それでも……記憶を思い出せば……何かが変わるかもしれません……」
言葉とは裏腹に、マリアベルの視線は揺れ、まるで自分の信じてきたものが崩れかけているようだった。
マリアベルは、自分の言葉に自信が持てなくなったのか、力無く、弱々しく、最後の思いを呟いた。
「ゴブリンの巣で家族が亡くなっていく様子を思い出すの? それとも、ゴブリンに陵辱され続けた悲劇を思い出させるの?」
「そんな……つもりは……」
うん、わかってるよ。マリアベルが、そんなことを思っていないことは、重々承知だ。だけど、記憶を思い出させるということは、そういうことだ。
「救出した少女には会うよ……だけど、記憶を取り戻すことには協力しない」
その言葉は自分でも驚くほど静かで、けれど揺るぎない決意だけがはっきりと宿っていた。
少女が望まない限り、私は失った記憶を取り戻すことには反対だとマリアベルに告げた。
ヴァンの赤い瞳が、私を静かに見据えている。ヴァンは人間が大好きな魔物だ。領主様だとしても魔物であることも事実だ。
私の静かな怒りを感じて、ヴァンがどう思っているかはわからない。
だけど、アリオスが力強く握り返してくれた左手が、私の気持ちを丸ごと包んでくれていると安心させてくれた。




