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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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自立について

忍耐力、我慢、自己犠牲。

それらを習得する事は努力の完成の為。

だが努力とは目的のために行う過程の行為でしかない。

努力の完成はさらに目的があり、その目的とは「自立」だ。


では「自立」とは何か。

現代社会において求められる自立を「人間としての自立」として表現する。

この「人間としての自立」を例によって3つに分ける。

「経済的自立」

「精神的自立」

「社会的自立」

細かく分ければ「◯◯的自立」は増えるがとりあえず「人間としての自立」の中身を考えるとこの3本柱が必要なものとなる。

3つそれぞれについての話をする前に「どうすれば自立している状態と言えるのか」という事を語りたい。

その上で人間が一番最初に行う自立、赤ん坊の頃に行う「肉体的自立」、あるいは「物理的自立」を例にしたい。


赤ん坊が「自立している」と言える状態は勿論、赤ん坊が支えを必要とせずに2本の足で立っている状態だ。

その状態にさえなれば「自立している」と評価していいのだろうか。

それだけでは物足りない。

何故なら大人は多少の風が吹いていたり、坂道であったりしても問題なく立って居られるからだ。

勿論、台風だとか地震などで大人でも立ち続けるのが困難な状態で立って居られないのは仕方がない。

だが外的要因、環境の変化にある程度対応して立って居られるようになって初めて「自立している」と評価される。


肉体的、物理的な自立において必要なのは立ち上がるための筋力や意思である。

赤ん坊は成長に伴いそれが備わっていく。

そして大抵の場合、赤ん坊が初めて立ち上がる場所というのは家の中であり、床は平らで硬く、しっかりと踏みしめる事ができる。

家の中だから風などもない。

それが自立のための1段階目だとしたら次は床が坂になっていたり、外にでて風が吹いていたりして外からある程度の圧力がかけられたり、という状況の中でしっかりとバランスを取る事。

最後はさらに過酷な環境において自立できない所まで追い込まれて転ぶ事。

そして転んで痛みを感じた後で尚も立ち上がる。

努力の3つの要素に当てはめて考えていくと筋力向上が忍耐力、バランス維持が我慢、転んだ後に立ち上がる事が自己犠牲。

それが肉体的、物理的な意味での「自立」の完成形だ。

「平らな床」で「障害となる外的要因がない」という環境でのみ自立した所で意味がない。

「どんな状況、環境で例え転んだとしても可能な限り立ち上がり、自立していられる。」

という事が汎ゆる「◯◯的自立」に共通するものだ。


それを踏まえた上で「人間としての自立」の一番分かりやすい自立、「経済的自立」についても考えてみる。

経済的自立はまず大前提として自力で金を稼ぐ事、金を稼ぐ能力を身に着ける事が大前提。

だがそれだけでは物理的自立に照らし合わせた時では第一段階の「自立するための筋力を身に着けた」という状態でしかない。

第二段階はバランスを取る事。

つまり経済的自立においては収支のバランスだ。


最近話題になった話でキャバクラ嬢が年収400万の男に向かって「アンタの年収を一日で稼げる」という発言があったらしい。

前後の流れは知らないがそれほどの額を一日で稼げるのは確かに凄い。

だが収支のバランスが取れておらず、稼いだ分だけ、あるいは稼いだ以上に消費するのではバランスが取れているとは言い難い。

そのキャバクラ嬢がどんな収支のバランスをしているのかは知らないが、キャバクラ嬢に限らず、例え金持ちであってもいざという時のための貯蓄や財産がないのであれば第二段階をクリアしているとは言い難い。

逆に言えば年収が400万だろうが300万だろうが身の丈にあった生活をして蓄えが順当にできる生活が出来ているのであれば自立の第二段階をクリアしていると言える。


最後は肉体的、物理的自立において転んでから再度立ち上がる。

経済的自立において当てはめれば「全財産を失ってから借金を返すために仕事をする」という話ではない。

自分の都合で散財し、貯蓄を失い、借金をしてそれを返すのであれば単なる自業自得であり、自立とは無関係の話だ。

あくまでも先述した肉体的、物理的自立において「転ぶ」というのは自立状態が維持できないほどの「圧力」や「環境の変化」、そうした「外的要因」に直面した時だ。

「被災して辛くても立ち上がる」

「夫が事故で亡くなっても子どもを養うために立ち上がる」

あくまでも「外的要因」によって自立して居られなくなった時に「転ぶ」。

「予想外」

「理不尽」

そうした状況に陥った後にそこから立ち上がる。

「役割」を果たす。

「生き残った人間」として後世に災害の恐ろしさを伝えて備えの重要性を示すため。

「親」として子どもを育て上げるという責任を果たすため。

そしてそれが出来るのはやはり「忍耐力」と「我慢」の両方が無くてはならない。


では「人間としての自立」となった時はどう考えるべきなのか。

結論を先に言えば「他人の自立を支援する事」ができるようになる事だ。

だから「人間としての自立」についても3つの要素に分けた。

経済的自立だけでは「人間としての自立」には満たない。

「自分の力で自分を養う事ができるし、例え社会が変化してもこれだけの蓄えがあれば生き残れる」

経済的自立だけを自立の尺度として見れば立派ではある。

そこまでの蓄えを得るまでに努力してきたのだろう。

「努力の完成」は果たしている。

しかし「経済的自立」だけの側面でしかない。


経済はそもそも人と人の社会の中で生まれた制度だ。

元々は物々交換、そこから貨幣制度に移り変わった。

物々交換では2人だけだ。

それでは欲しいものと与えるものが一致しなければならず不便だ。

だが貨幣であれば誰しもが仲介役となる。

自分と仲介、そして交換相手。

自分は学がないから詳しい話は分からん。

だが3人以上いて初めて経済は回る事は分かる。

つまり逆説的に、そして極論ではあるが最低でも一度の取り引きで自分を含めて3人が満たされなければ貨幣制度、経済という概念そのものが意味がないと言える。

店から物を買う客、そして店に品物を卸す生産者。

そして店。

それそれがそれぞれ望むものを得られるから経済が成り立つ。


「経済的自立」はでも「自分」の事だけに焦点が当たっている。

だが「自分さえよければ良い」では経済そのものが成り立たない。

それと同じで「相手」に、そして「周りの環境」 に還元できて初めて「人間としての自立」と言える。

そのためには「経済的自立」のための「努力の完成」だけではなく、「精神的自立」と「社会的自立」の「努力の完成」が求められる。


その上で「人間としての自立」で「他人の自立の支援」を考えるに当たり、気をつけ無ければならないことがある。

それは「他人の自立の支援」の対象となる存在。

誰でも良いわけではない。

どんな方法でも良いわけではない。

助ける対象となるのは「助けが必要な存在」である。

またいくら他人を助けるべきだとしても自分が潰れては意味がない。

「自分が問題なく自立して生きていける状態」を確保しながら「他人が自立できるだけの支援」をする。


努力の完成において「社会」がそれぞれ「 我慢の時代」から「忍耐の時代」に移り変わり、そして将来的に「自己犠牲の時代」に移り変わるだろうと書いた。

この変化そのものがまず問題なのだ。

我慢の時代が終わる時、「助ける相手」を「助けが必要な存在」ではなく、「自分が助けたい存在」だけを救った。


「助けが必要な存在は助けたい理想の姿をしていない」という話を最近ネットで目にする。

実際そうだ。

助けが必要な存在は美女でもなければイケメンでもない。

素直なわけがない。

大抵捻くれている。

捻くれているからこそ助けが必要な事態に陥っているし、そして助けをえられなかったからこそ防衛本能から捻くれている事もある。

だからこそ助けた所で恩を返してくれるとは確約できない

助けても恩を仇で返すような輩もいる。

「だから助ける必要はない」

そうではない。

そう考えるのは「自分本位」だからだ。


自分本位で「助けたい存在」しか助けようとしないのだから当然ながら「助ける行為」そのものについても「相手が自立しているかどうか」ではなく「自分の気分次第の裁量」になる。

「支援はこの程度で良いだろう」

それが不足していれば「見捨てた」として恨まれるし、支援が過度であれば「甘っちょろい」と舐められて隙をつかれて奪われる。


「 自分本位」だから相手に対しての支援が「雑」なんだ。

そして「雑」であるが故に何処かで躓き「転ぶ」。

「忍耐の時代」である現代社会においめ「経済的自立」を果たしている「優秀」な人間。

その「優秀な人間」が「経済」以外の何かで躓いた。

その時に立ち上がれない。

金絡みならどれ程辛くても立ち上がる事ができる。

優秀だから。

だが精神的なもの、社会的なもので躓いた時に立ち上がれない。

躓いて「転ぶ」までに精神的、社会的自立に必要なものを身に着けていない。

だから「金で解決」以外で繋がる相手、「助けてくれる相手」がいないから転んだまま立ち上がれないし、立ち上がる方法がわからない。


「優秀」とは「女」の性質と同じ。

選択肢が与えられ、それを選択していく。

経済的自立を身に着けた事で「自信」があるだろう。

経済的余裕があるおかけでトラブルにも動じない「度胸」もある。

だがソレはあくまでも後ろ盾として「金」があるから。

「金で解決」ができる範囲のトラブルに対してでしかない。

「金で解決できない事」に直面して躓き、そこから立ち上がらなければ「人間としての自立」とは言えない。


そして「経済的自立」を果たしていても「人間としての自立」が出来なかった人間が現在進行系で「自己犠牲」を主張している。

その手の人間が変えようとしているのは「助けが必要ではない人間」だ。

そして「助けが必要な人間」には手を差し伸べない。

「自分本位」で「他人の自立のための支援」に対して「雑」。

その自分の「雑さ」を正当化するために「役割」に求められる定義の変更を求める。

だがその手の人間が言う「役割」は質が低い。

理由は解像度が低い。

優秀であるから。

その性質が「若い女」と同じだから。


血の滲むような努力をしなくても何となくやってこれた。

才能、環境、あるいは時代。

そうした物で得た他者から選択肢を差し伸べられる。

自分が安易に選んだ選択肢、安易に切り捨てた選択肢。

どちらの選択肢もそれを提示した人間が丁寧に作り上げた選択肢だ。

何故優秀な人間が「雑」に考えても正解が出るのか。

優秀な人間が優秀になるまでの間、周りの人間が丁寧に支援したからだ。

その事を自覚しないから「精神的自立」を身に着けられない。

そして経済的自立、精神的自立の両方が揃っていないから「自分が問題なく自立して生きていける状態」を確保しながら「他人が自立できるだけの支援」をすると事が出来ない。

他者を助ける事が出来ない人間、「自分さえ良ければいい」と言う人間が「社会に必要な事」をどうやって見極められる。

そのような人間が言う「社会に必要な事」は「自分にとって都合が良いこと」でしかない。

「自分の利益」しか考えないから「 社会を豊かにする事」ができない。

勿論、「精神的自立」だけしていて「経済的自立」をしていない人間も結局無意味だ。

「自分が生きていくのがやっと」しか稼ぐ事ができない人間がいくら「他人を助けよう」としても結局それは「自分を破滅」させるしかない。

どちらが欠けても「社会的自立」ができない。


「人間としての自立」

それは「他人を助ける」と言う事ができるかどうか。

「自分さえ良ければいい」と考える人間は躓いて転んだ時、立ち上がらずに「社会が変わればいい」と考える。

助けが必要ない人間、「普通の人間」を「正論」で攻撃する事で自分の都合の良い社会にしようとする。

助けが必要な人間については「普通」を盾にして攻撃する。

そうする事で排除して自身の自立していない部分、「雑」な部分から目を逸らす。


忍耐力も我慢も自己犠牲も必要だ。

だが一番重要なのは「偏らない」と言う事。

それぞれの要素の「バランスを取る」と言う事。

経済的自立も精神的自立も社会的自立も人間としての自立に必要。

経済的自立をしているから精神的にも社会的にも自立しているわけではない。

世の中にいる金持ちの有名人や先述した400万くらい一日で稼げると言ったキャバクラ嬢。

何れも経済的自立を果たしているが、全員精神的にも社会的にも自立しているといえるか。

ソレならば何故炎上する。

何故落ちぶれる。

若さと同時に金を失い、見る影もなくなってしまう人間が何故いるのか。


あくまでも金があって「余裕」があるからそう見えるだけ。

だからこそ「人間としての自立」とは「他人の自立を支援する」という事ができるかどうか。

そしてその「支援」を受けた人が本当に「自立」を果たしているか。

本当に「人間としての自立」が果たされている人間であれば「社会」に求められるものが「忍耐」になっても「我慢」になっても「自己犠牲」になっても立ち続けられる。

どんな時代になっても「他人の自立を支援」できる。


勿論、「支援」したからと言って「絶対にその人は自立する」と言うわけじゃない。

ここからは忍耐力のない自分が言うべきセリフではないが敢えて主張してみる。

月並みなセリフではあるが、

「やってみなくちゃ分からない」

忍耐力がない、だからこそ躓き、転び、立ち上がれずに失敗した。

だが本当は人を助けたかった。

「普通」になりたかった。

「人間として自立」を果たしたかった。

「やってみなかった人間」である「自分」が「失敗」した。

だから「他人の自立を支援する事」が

だが「やってみなくちゃ分からない」とは言える。

そして「やらない場合」は「人間としての自立はできない」。

それだけは「失敗した側」からのお墨付きだ。


自分が手に入れられなかったものは自分が選ばなかった選択肢の先にある。

そんな自分だからこそ「自立したい」と思うのであれば「自分が生きていくための自立」だけではたりない。

「自分も生きる」

その上で

「他人の自立の支援」

それに意識を向けなければ本当の意味での「人間としての自立」は成し得ない。


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