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何か書きたい。  作者: 冬の老人
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忍耐力 2

忍耐力のゴールは「自分の成長」であり、その「自分の成長」が「自分の幸福」をもたらす。

それ故に「自分が幸福になれる」、つまり「気分がよくなる」と認識できる事が忍耐力のスタートとなる。


自分は趣味として筋トレをしている。

筋トレに興味がない人間から見れば重い物を持ち上げていて疲れるだけの「苦痛」だ。

またエッセイや漫画やゲームの考察記事をも書いてネットに投稿している。

コレも理解できない人間からすると「苦痛」だろう。

だけどやってる当人からすれば「苦痛」ではなく「娯楽」である。


逆に自分は「食」については拘りはない。

不味いものより美味い物の方が良いが、あくまでも栄養摂取として食べる。

そして「食を楽しむ」という感覚を持った事はない。

そして会食恐怖症という類に近いものがある。

過去にエッセイで書いた気がするが自分の食に対するイメージの全ての原因は子どもの頃の家庭環境で形成された。


筋トレという本来やる必要のない苦痛を趣味に変えた。

最初は「我慢」だった。

「モテたい」というような目的があり、その「報酬」のために筋トレを始めた。

それが扱える重量や回数が増え、身体つきが変化し、力の成長を実感した。

それからは誰から言われるでもなく筋トレが続いている。


食事という本来ならば動物にとって必須であり快楽であるものを「苦痛」に変えられた。

テレビ等で映った物に興味が湧き、「食べてみたい」と言葉にする事すら「贅沢」だと言われ、食べたくないものを「好物」であるかのようにさせられる。

「好き嫌い」の激しい妹は怒られないのに、自分だけが「食べる量が少ない」からと怒られる。

だが動物である以上、食わなきゃならない。

「怒られる」のとセットで極端な「一生飯抜き」の宣告をされる。

今思えばあんなのはハッタリであり、親自身もそんな事をすれば子どもが死に自分達は子殺しの犯罪者になるわけだから「一生飯抜き」なんてのはやるわけがない。

だが子どもにとってそんな嘘は判別つかない。

そして食わなければ餓えで精神的に病み、いずれ肉体的にも死に至る。

どれほど食事が苦痛でも食わなきゃ後で後悔するのが本能的に分かる。

天秤にかけてどちらがより面倒で嫌な気分になるかを判断する。

結果として「作業」として割り切って食事をする。



忍耐力のスタートは「気分」だ。

その行為が他人から見たら「苦痛」にしか見えなくても当人が「娯楽」として考えていればプライベートでそれを選択する。

逆にいくら一般的に「娯楽」の類と言われるものだとしても当人が「苦痛」と考えていればそれはプライベートでは選択しない。


遊びたい盛りの子どもに「勉強」や「手伝い」などを強いる。

やりたいと思うわけがない。

やらせるために「報酬」を与えてやらせようとする。

小遣いを与える、好きな物を買ってあげる。

しかし「報酬」では「我慢」になる。

我慢強さは刺激への慣れだ。

「定期テストで良い点を取ったら欲しがっていた物を買ってやる。」

「今度の休み、一日だけ家の手伝いをしてくれ。その代わり、小遣いをやる」

この程度なら良い。

学校の定期テストはせいぜい2ヶ月〜3ヶ月に一度。

休みの日一日だけ子どもに頼まなければならないような大きな事はそうそうないだろう。

「避けられない事」であり「緊急性」がある。

「急ぎでやらなければならない大きな事」

そうしたものの場合は報酬を与えてもいい。

大人だって同じだ。

休日出勤や出張。

プライベートが犠牲になる場合やいつもと異なる特殊な状況で負荷が大きい業務となれば給料が割り増しになったり、手当がつく。

それを乗り越えるためのモチベーションとして「報酬」を与える代わりに「我慢」をさせるのはいい。

しかし「毎日の勉強」や「日常的な手伝い」にその報酬は必要ない。

むしろそれを常態化すると次第に「報酬」という刺激にも慣れていき、より多くを求めるようになる。


忍耐力には金品などの報酬は必要ない。

ただし「気分が良くなる」という事が必要になる。

金品などの報酬以外で気持ちを満たさなければならない。

理想的なのは親が子どもに色んな事を経験させればいい。

経験した事から興味を持ち、勉強が好きになる。

だがそれは興味を持った特定の分野に限った話。

何より、金も時間も労力もかかる。

当たり前だ、それが「愛」だ。


しかし親としては「学校の勉強」をさせたい。

「家の手伝い」をさせたい。

単に親の願望というだけでなく現代社会では重要な事だ。

そのために子どものプライベートを犠牲にさせる。

ならやるべき事は簡単だ。

「勉強」したらその様子をちゃんと見て「褒める」。

「手伝い」してくれたらちゃんと評価して「感謝する」。

親が仕事をしたり、家事をするのはそれが「仕事」。

しかし子どもはプライベートで勉強したり手伝いをするのは仕事じゃない。

仕事で褒められれば嬉しいと感じるのは大人も同じ。

誰かを助けてそれに感謝されれば気分が良くなるのは大人も同じ。


「優秀な人間」は「勉強」するのは当たり前だと思っている。

「若い女」もまた「メイク」をしたり「流行り」に乗るのが当たり前だと思っている。

優秀な人間にとって「勉強する」→「スキルが身につく」→「高いレベルの仕事をこなす」→「評価される」→「年収が上がる」という事を理解しているからだ。

若い女も同じ。

「メイク」をしたり「流行り」に乗れば褒められ、報酬が得られる。

そしてよりメイクが上手くなり、流行りの最先端に居れば更なる報酬が得られる。

「やれば得なんだからやらない理由がない」

それが当たり前だからだ。

それが当たり前すぎて「勉強する」→「年収が上がる」と直結させる。

「勉強する」から「年収が上がる」までの間の3つの工程、理屈が当たり前だからそこに思考の余地がない。

「どんな勉強をするのか」は考えても「何故勉強しなければならないか」という部分を考えたりする事自体が無駄。

彼等、彼女等は無駄がない。

ソレはつまり思考について段階を踏まないという事。

一気に駆け上がるからスピーディーであり、試行回数が多く、成長できる。

だから優秀であると言える。


だがそれはつまり始まりと結果の間に挟まれている事について考える事を無駄と思えるほど周りのサポートや生まれ持った才能に助けられたというだけの話。

子どもが「挑戦」するために親がその挑戦させるために必要な金や時間を用意し、さらに責任を取る。

「勉強」が「自らを幸せにしてくれる」

「手伝い」が「自らを気分よくさせてくれる」

その「行為」 が「信用」出来るほどに周りの人間が「気分」を良くしてくれた。

「何もしなくてもいい」と刷り込まれる「甘やかし」ではない。

「イージーモード」、「甘えが許される環境」で充分にトレーニングさせて貰えた。

「優秀な人間」はそうやって作られた。


「勉強」が習慣化できているのは「気分良く」させて貰い、「苦痛」を「幸福感の実績」が上回ったから。

勉強だけでなく多くの事で色んな経験を「気分良く」やらせてもらった。

何度も、そしていくつもの経験を経て「理由」など考えずとも「やってよかった」という気持ちがわざわざ「何故やる必要がある?」と考えたりせずに「行動」をさせる。

それを続けていけば次第に「気分」すら必要無くなる。

「結果」が分かっているのだから。

一般的に「普通」という感覚だ。


そうやって家庭で「忍耐力」の基礎を身につければ学校で「プライベートを潰す行為」である部活や委員会、生徒会なども経験してみよう、と思えるハードルは下がる。

社会に出ても色んな事に挑戦してみよう、自分に指示された仕事以外の事にも興味を持とうと思える。

家庭で忍耐力の基礎を学べば他の場所でもそれを応用できる。


自分は勉強にしても手伝いにしてもそうやって「気分良く」させて貰えなかった。

勉強しても手伝いでも褒められる事はない。

「満点」の「結果」を求められる。

それでも「報酬」を得るために我慢してもある程度の結果を出せば同じ報酬を得るための必要となる作業量の基準は上がり、「次はコレをやれ」「明日はアレ」とやればやるほど作業とストレスを抱え込みた。

最初は「親が喜んでくれる」と思っていた事なのに、褒められた事はない。

それどころかやればやるほど「自分達はお前のためにいつもコレをやっているんだから感謝しろ」と要求される。

怒られる事が増え、罪悪感を背負わされ、次第に積極的にやる事は消えた。

命令されて嫌々やるようになる。

やがて「出来ないフリ」や「分からないフリ」をして逃げるようになる。

そして「フリ」をして逃げた事に対する自己嫌悪でさらにネガティブになる悪循環。


忍耐力がなく我慢だけで生きていた自分にとってプライベートを潰す事は「損」でしかなかった。

勉強しても手伝いをしても何か文句をつけられる。

テストの点数が上がっても、手伝いが上手く出来ても褒められた事は一度もない。

「完璧」でなければならない。

だから勉強や手伝いをして「自分が幸福になれる」という感覚を身につける感覚がなかった。

人間は何処までいっても「感情」の生き物だ。

どれだけ冷静な人でも感情がない人間などいない。

勿論、汎ゆる行動理由が「感情」では問題がある。

ソレは単なる我儘だ。

とはいえ、「感情」を否定すれば損得勘定でしか測れなくなってしまう。

しかし損得勘定だけでは夢や目標が消える。

夢や目標が消えるという事は結果的に「長期的な視点」を身に着ける事が困難になる。


我慢は短期的な利益を得るために必要ではある。

何事も先立つ物が必要だし、それはそれで必要な能力だ。

しかし、夢や目標がなければその我慢で得た報酬を使って行う物がなくなる。

我慢で得た物を快楽のために浪費する。

感情を排除し、夢や目標を切り捨てて損得勘定と合理的な判断だけではいずれ若さを失うのだから向かう未来は下り坂でしかない。

まずは気分。

長期的な視点での夢を設定。

次が損得。

夢を実現するための現実的な選択肢のリストアップ。

最後が危険度。

選択肢の中からメリットデメリットの精査。

最終的には全ては「判断」のため。

長期的な視点から行動選択をするために必要な事。

長期的な視点を身につけるために「気分」を深く掘り下げていく事。


自分にとって喜びと感じるものは何なのか。

「金」は確かに大事ではあるが、結局その使い道だ。

夢の為に使うのか、快楽のために使うのか。あるいは別のものか。

別に何に使おうと「自由」ではある。

だが親にゲームを幼少期に我慢させられた人間が大人になって爆発してゲーム依存性のような状態になったりするように基本的には「自分が求めるもの」に使う。

その「自分が求めるもの」をある程度用意してくれるのが「家庭」。

「自分が求めるもの」とは広く考えればそれは子どもが「夢」を口に出して語る事が許される環境。

それはつまり親という存在が「信頼」出来て「信用」出来る存在という事だ。


優秀な人間が勉強する事で自分の力になると信じているように。

若い女がメイクする事で自分に価値が生まれると信じているように。

子どもが夢を叶える事を信じられるようにする。

そのために親が子どもの夢を馬鹿にしたり否定しない。


しかし当然ながら夢とは現時点で届かないから夢。

今のままでは夢は叶えられない。

そのためには力を付けるために勉強したり手伝いしたりしなければならない。

「親」を信じる事ができるから勉強も手伝いもできる。

だからこそ「親」という「信じられる大人」がいる「家庭」こそが「忍耐力」の基礎を育む事に適している。

それ以外の場所で「信じられる人間のいる環境」を確保するには「金」「時間」「労力」といった「愛」が必要となる。

人を信じられないから忍耐力が身に付いていないのに、人を信じられないまま愛するのは相当の覚悟がいる。

そして結局それを用意する事すら忍耐力の基礎が無ければ「損得勘定」で計算してしまうから大人になってから忍耐力を身に着けるための難易度は非常に高くなる。


本来なら子どもの頃に家庭で学ぶ「忍耐力の基礎」を大人になってから学ぶのは例えるなら外国語の習得と同じだ。

日本人は日本語を子どもの頃から当たり前のように使う。

周りの大人が日本語で会話するからだ。

そして外国語の習得は難しい。

日本において小さい頃から外国語でやり取りする環境に身を置いている人間は少数派だろう。

だから幼い頃から英才教育と称して日本語以外の言語を学ばせる親もいる。

もっとも、それがいい事なのかはわからないが。


言語の習得についても忍耐力についてもやる事自体は大人も子どもも変わらない。

しかし大人になってから子どもと同じような方法、「受け身」で「自然」に習得する事は不可能に近い。

外国語を学ぶ時と同じ様に理屈を理解し、簡単な事から順番にこなす必要がある。

「忍耐力」という能力はそれを身に着けて来なかった人間からすると異邦の概念。

「自然に身に着けるのは無理な話」という事をまず受け入れなければならない。

「自分は忍耐力がない」という事を受け入れた上で忍耐力の理屈を一から学び、その理屈を「信じる」事が必要になる。


外国の言葉を学ぶという事は報酬を得るために仕方なく我慢する、程度では最低限の理解度で留まる。

そして最低限なら今どきはAIで翻訳できる。

最低限でいいならそれで充分だ。

しかし日本の文化に憧れて日本語を学ぶ人がいる。

現代ならAIで翻訳できるにも関わらずだ。

「生の日本語を直接受け取ってそれを自分で理解したい」

これ以上ないくらい「感情的」な理由だ。

しかしそれが日々の勉強を苦痛から楽しさに変える。


忍耐力を身に着けるならば「損得」よりも「感情」を信じる。

そのためには「信じる」という事に対する解像度を上げて「信じる事についての理屈」を理解する必要がある。

ましてや「家庭」において「親」を「信じる」という事が出来なかったから「忍耐力」が育たなかった。

その行動を信じるために「成功者」を信じて成功者に言われるがままに行動する。

所謂「信者」である。

それで成功出来ればいいがあくまでも成功者が成功出来たのは成功者自身の能力と行動が合致していたからであり、さらに言えば社会と時代の影響などもある。

成功者の成功した実績だけに目を向けて、人格や背景などは表向きの面だけを見て判断する。

あまりにも博打だ。


「子ども」じゃないんだ。

「損得勘定」も「責任」も判断基準にしなければならない。

本来は「子どもだから」と許された部分、代わりに親が背負ってくれた部分を自分で背負う覚悟がいる。

それを背負いつつ、信じて行動する。

そのためには「成功者」だからその成功者の言葉を信じるのではなく、成功者の言葉の中の「成功するための理屈」の中で理解している部分、「理解している自分」を信じる。

自分が理解した知識に基づいて実際に行動して見て、それが「正しい」と証明される事で「成功体験」を得る。

「自分の理解」が「正しい」事が証明された事、自分を信じて「自信」を積み上げる。

あくまでも忍耐力は「自主性」から始まるのだから「自分」を起点にしなければならない。

そのためには「感情」を、自分の喜怒哀楽のそれぞれの感情の内、何がどんな事に反応するかを理解しなくちゃいけない。


忍耐力とはプライベートの力であり、気分の力。

感情の力だ。

それ故に感情のコントロールが必要となる。

そして忍耐力がない人間は感情をコントロールせずに感情を殺して生きてきた。

コントロールとは殺す事ではない。

その最初のコントロールをするべき感情、理解を深めるべき感情が喜怒哀楽の「喜び」の感情。

その理屈を理解してこそ次の感情の「怒り」を迎える事ができ、忍耐力を身に着ける事ができる。

そんな風に「自分は思う」。

だからその「理屈」を元に行動する。


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