忍耐力 1
話長いから2つに分ける→手直し→文字数増える→結局2話合わせて元の倍の長さになっただけだった。
前回までの「努力の完成」という話をしてきて努力には「忍耐力」と「我慢」と「自己犠牲」があるという話をしてきた。
そして努力を構成する3つの要素はそれぞれ学ぶ場所が異なる。
忍耐は家庭で。
我慢は学校で。
自己犠牲は社会でそれぞれ主に基礎を学ぶ。
この「努力の完成」を書くに当たって気をつけていた事がある。
それはそれぞれの努力の要素を学ぶ場所で「主に」という言葉をつける事。
自分が最初に語ったように自分は家庭において本来学ぶ筈の「忍耐力」を身に着けずに「我慢」と「自己犠牲」を身に着けていた。
また社会そのものも時代とともに「我慢」「忍耐」「自己犠牲」それぞれの社会的価値感に変動していく。
努力を学ぶ場所を「家庭」「学校」「社会」と3つに分けたものの見方を変えれば全て同じだ。
家庭というのも「血縁者同士の小さな社会」といえるし、学校についても「地域、学力、年齢等で分けられた小さな社会」といえる、
社会にしても見方を変えれば文化を共有する人間同士という大きな枠の家庭、あるいは学校という見方もできる。
つまりは学ぼうと思えばどこの場所でもどの努力の要素でも学ぶ事は可能だ。
では何故場所で分けるのか、と言えばそこで「基礎」を学ぶ場所であり、「チュートリアル」、あるいは「イージーモード」と呼べる環境だからだ。
「学校」では「我慢」する。
授業中は立って歩いたり、おしゃべりしたりを我慢しなければならない。
真面目に授業に集中する。
たったそれだけで「内申点」などの「評価」が貰える。
テストの成績は平凡でも真面目に取り組む姿勢が評価される。
それを「我慢」という努力における「チュートリアル」、「イージーモード」と表現せずに何とか表現する。
そして同時に「我慢」をするだけでは「結果」 に結びつかない。
実際にその感覚、「真面目」なだけの受け身な姿勢で社会で過ごせば「学生気分」と言われ責められる。
我慢は必要ではあるがそれだけでは足りない。
しかしその我慢の基礎を身に着けるには学校という存在が必要でもある。
一方で「社会」では「自己犠牲」を学ぶ。
役割を全うし、責任を背負う。
特に昇進して部下を持てば更に責任は重くなる。
自分の行動や言動だけでなく、部下の失態などの責任も背負う必要があるからだ。
そしてその役割を果たさなければ首を切られ、場合によっては会社自体の今後を左右しかねない。
「自己犠牲」を身に着けなければ「自分がいる場所」が無くなるかもしれないのだ。
しかしこれも「自己犠牲」という目線で見た場合、「子育て」と比較すると「チュートリアル」で「イージーモード」だ。
何故なら部下とはいえ相手は「大人」だからだ。
余程の事がない限り、例え自分が自己犠牲をしなくとも相手は死なない。
しかし子どもは親が自己犠牲をしなければ死に直結する。
だからこそ社会で学ぶ「自己犠牲」については「チュートリアル」といえる。
そして我慢は学校で学ぶがその後、社会に出てもあるいは家庭でも強制される。
また、学校に入学する年齢になれば家庭でも徐々に年齢に見合った扱いをされる。
行動範囲は広がり、自由度も増す。
しかしその広がった行動範囲や自由を満喫するにはどうしたって金がいる。
子どもが遠くへ移動するための金は親から貰うしかない。
そのためには何らかの我慢をして報酬を得るしかない。
そして「我慢した」という事は「時間」や「体力」が消費しているという事。
せっかく得た報酬を自由に使いたいと思っても時間が足りない、体力がない、となれば有効的には使えない。
その得た報酬、限られた報酬を有効的に使うために「工夫」 が必要になる。
自己犠牲も同様で社会で学ぶとはいえ、大人になって家庭を持てば自己犠牲は強制される。
パートナーのため、あるいは子どものため。
我慢も自己犠牲も目的には「相手」がいるからだ。
我慢は報酬を与えてくれる相手。
自己犠牲は責任を背負い守るべき相手。
それぞれと関係を続けていく限り、我慢と自己犠牲は強制的に継続される。
問題は「忍耐力」だ。
この3つの中で忍耐力というのは強制されない。
というよりも「強制されない環境」でこそが「忍耐力」の能力を発揮する場所だ。
そして忍耐だけは目的が「自分の成長」であるために「相手」が存在しない。
ストイックなアスリートなどが「戦う相手は自分」などと言うのは定番だがそれが忍耐力だ。
相手がいるとするならば「自分自身」である。
「忍耐力」とは「プライベート」の力。
「自由」な時間、場所で何を考え、選び、何を切り捨て、何をするか。
上述した我慢において得た報酬を有効的に使うための「工夫」という文言も忍耐力を持っていなければ工夫出来ない。
我慢していれば報酬が得られるだけで満足できるのであればわざわざ工夫するという事をする必要性がないからだ。
「自由」な状況において強くなるために欲を捨てて苦しみや痛みを伴う事を行う事が「忍耐力」だ。
「強制される」のではなく、「自発的に行う」という事、所謂「自主性」が忍耐力の前提だ。
そして「子ども」というものを「未成熟な人間」という「存在」として捉えるのではなく、「家庭の中での役割」として捉えた場合、明確な「仕事」はない。
強いて言えば家庭において子どもとは「成長する事」、「忍耐力」を持つ事こそが「役割」であり、「仕事」だ。
そして「学校」で「勉強する」、「宿題」をするというのは「生徒」としての役割だ。
だから家庭において親から指示される事は「業務外」の事である。
「生徒」としての役割の宿題を終わらせて暇な時間にゲームをしてダラダラ過ごしている子ども。
多分、家事をしたりして忙しい親からすれば気に食わないだろう。
しかし子ども自身は子どもとして果たすべき仕事は終わっている。
それに対して親が「勉強しろ」というのも本来は子どもにとっては「業務時間外」の事。
「手伝いしろ」というのも「業務時間外」。
どちらも「残業」だ。
それを「親」という強い立場の人間が命令するのであれば「我慢」であり、「報酬」が必要になる。
そしてさらに言えば命令した上で「報酬無し」であれば「我慢」ではなく「自己犠牲」を強いる事になる。
とはいえ、そうやって強いるのは悪いわけではない。
先述した通り、「我慢」も「自己犠牲」も何処でも学べる。
それを家庭で学ばせるのは悪い事ではない。
予習として考えればソレは躾と言える。
そして何より「努力の完成」にはどの道必要な事でもある。
だがそれでも家庭でメインとして学ばせる事は「忍耐力」だ。
我慢や自己犠牲を家庭で予習させてもいい。
しかし家庭はあくまでも忍耐力をつけさせるため、どうするべきか、というのを考える事が最優先事項。
忍耐力と我慢と自己犠牲の比率は5:3:2でもいいし、8:1:1でも構わない。
比率には正解はない。
結果として子どもに忍耐力の基礎と学校や社会で躓かない程度の最低限の我慢と自己犠牲を教えていればそれで充分だ。
しかしこの比率が家庭においてメインで教える筈の忍耐力を蔑ろにして1:5:4となってしまったり、10:0:0のように我慢や自己犠牲を一切教えないのは家庭の、そして親の役割を放棄している。
勿論、目に見えないものを数値化なんてのは不可能に近い。
物の例えだ。
しかし努力について忍耐力も我慢も自己犠牲もごちゃ混ぜにして考えていれば親からすれば「忍耐力の訓練をさせているつもり」のものが子どもからすると「我慢」だったり「自己犠牲」だったりと見当違いの努力をさせている事になる場合もあり、運任せとなる。
それに気付かないで年齢を重ねるに連れて理想と現実が乖離していき「我慢強いが自主性がなく、受け身の人間」や「自主性はあるが我儘で堪え性がない人間」などが生成される。
そして忍耐力を身に着けさせるために親は
「どうすれば勉強させられるか」「どうすれば手伝いをさせる事ができるか」
という事を考える。
忍耐力は「自分の成長」のためのもの。
我慢は「報酬」のためのもの。
自己犠牲は「大切な存在」のためのもの。
目的、つまりゴールは3つに分かれている。
であればスタートも3つに分かれていると考えるべきだ。
「我慢」の目的が「報酬」という事は「損得勘定」だ。
という事は我慢をする最初は「我慢をするに値するかどうか」という「天秤にかける」という事から始まる。
「報酬」が多ければ喜んで我慢する。
「報酬」が少なければ断る。
子どもに勉強させるためには報酬を与えればすぐ勉強するだろうが長続きしない。
我慢による行動はあくまでも報酬の分しか行わない。
「自己犠牲」の目的が「大切な存在」のためというならばそれは「危険」から遠ざけるため、という事だ。
「危険度」が高ければ優先して自己犠牲を行う。
「危険度」が低ければ後回し。
体罰だとか子どものものを奪うなどをして無理矢理やらせればこれもやるだろう。
だが勉強や手伝いを罰として解釈するから身にならない。
サービス残業みたいなもので根本的な改善が成されなければその内潰れる。
「忍耐力」の目的は「自分の成長」のため。
スタートは報酬あるからでも危険が迫っているからでもない。
何故「自分の成長」を求めるのか。
それは一般的には「将来」を見据えた上でいい仕事に就いたり、良きパートナーと結ばれるため。
勿論他にも理由は個人個人で色々ある。
だがいずれにしても忍耐力を身に着ける目的は「自分の成長」のためであるが、更にその「自分の成長」の最終的な目的は「自分の幸せ」のためだ。
という事はつまり「自分が幸せだと感じる」という事が忍耐力のスタートと言える。
家庭や親の役割は「気分良く子どもの成長に繋がる勉強や手伝い等を自発的に行うようにさせる」という事。
「気分良く」という事を考えるのが面倒だと思うから「我慢」をさせて安易に「報酬」を与える。
あるいは「気分良く」という事を「甘やかし」と解釈するから甘やかさないように「自己犠牲」を強いる。
先に書いているが家庭とは忍耐力の基礎を身に着ける場所。
「イージーモード」「チュートリアル」。
「勉強や手伝いなんかは何もしなくていい」という「甘やかし」とは違う。
我慢や自己犠牲を強制的にやらせればこの「甘やかし」と同じ状態になる。
子どもの気持ち、気分に理解を示さずにいれば結局は「報酬でしか動かない」、もしくは「やってもやらなくても嫌な気分にしかならないのだからやらない方がマシ」という結論に至る。
以前のエッセイで「女体は好きだが女は嫌い」という男が増えているのは同世代の女が原因ではなく、母親が碌でもないから、という考えを書いた事があったがそうした事も忍耐力に繋がってくる。
だからこそゲームなどのフィクションが好きになる。
虚構だとしても「褒められる」「感謝される」「賞賛される」という体験を現実で与えられないのだからそれを与えてもらい自分の気持ちを良くさせてくれる物を自由な時間に選択するようになる。
満点を求める親。
努力を見てくれない親。
努力のやり方を聞いても教えてくれない親。
そうした親と異なりゲームは一から教えて貰い、褒め称え、順番に学んでいける。
躓いたら何度でもやり直せる。
親が与えるべきものをゲームが与えるからゲームに依存する。
ゲームが悪いのではない。
「イージーモード」や「チュートリアル」を蔑ろにする親、「甘え」を許さない親が結果的に「甘やかし」と同じ方向に子どもを仕向ける。
ルールに反した事は「しちゃいけない」と叱ってもいいし、最終的な目標として高いレベルを求める事もいい。
それはゲームだって同じだ。
どんな名作と呼ばれる作品でも何処かでそれまでのプレイでは通用しないようなイベントやボスが発生する。
やってる時は目茶苦茶ストレスがかかって投げだしたくなる。
だけど、結局やり直して再挑戦する。
工夫して色々な方法を試す。
結果として全てをクリアした後に何処が印象深いか、と問われた時に「あの時のボスで目茶苦茶苦労した」という事が印象深かったりする。
でもだからといってそんな苦労はしているのにも関わらず「楽しかった」という思いから「またプレイしたい」と思う。
名作だからといってストレスがないわけではない。
むしろストレスとリラックス、それがいい塩梅で入れ替わりにやってくるから「心地よい」と感じてしまう。
前提として未熟な子どもはイージーモードから。
「簡単な事から一つずつ」。
褒めて、感謝され、幸福感を与える。
「満点を取る」という事が忍耐力としての正解ではない。
「勉強する」という事が忍耐力をつける上で正解だ。
子ども自身が「自由」な状態で「次」を選択できるような「気分」にさせる。
「自由がない状態」
「やるかやらないかの判断基準が気分だけではダメな状態」
それは学校でも社会でもある。
それぞれの場所にそれぞれの役割がある。
人間は分業によってそれぞれの役割に特化し、支え合って発展してきた。
そして教育においてその分業の一貫として「甘えが許される環境」こそが家庭の役割である。




