第九話 あの日の島(前編)
第九話 あの日の島(前編)
『地下施設へ来い』
『来なければ娘は死ぬ』
その紙を握り潰しながら、玲司は森の中を歩いていた。
高城達には止められた。
一人で行くな。
罠だ。
当然の意見だった。
だが玲司は知っている。
これは自分宛ての招待状だ。
三年前に終わらなかった物語の。
森を進みながら、彼は昔を思い出していた。
全ての始まりを。
三年前。
まだ中学二年生だった頃を。
当時の九条玲司は今とは違った。
人を殺したこともない。
戦ったこともない。
ただの少年だった。
金持ちの家に生まれた。
少しひねくれてはいたが普通の少年だ。
そんな彼を父親が珍しく旅行へ誘った。
「たまには親子で海へ行くか」
気まぐれだったのだろう。
巨大企業グループの会長である父親は忙しい人間だった。
だから玲司も少し嬉しかった。
クルーザー旅行。
海外の海。
数日間の船旅。
そんな予定だった。
しかし。
三日目。
嵐が来た。
海が荒れた。
通信が途絶えた。
そして。
クルーザーは流された。
ただ一人を残して。
玲司だけを。
目を覚ました時には島だった。
白い砂浜。
濃い森。
知らない場所。
近くには漂着した船の残骸。
そして。
父親の姿はどこにもなかった。
玲司は必死に探した。
海岸を。
森を。
崖を。
だが見つからなかった。
今でも生死は分からない。
それが真実だった。
孤独。
絶望。
空腹。
恐怖。
十三歳の少年が抱えるには十分すぎる状況だった。
だが。
もっと最悪なものがいた。
銃声だった。
初めて聞いた時は雷だと思った。
だが違う。
その直後。
叫び声が聞こえた。
そして。
軍服を着た男達を見た。
傭兵だった。
玲司は捕まりかけた。
森を逃げた。
追われた。
何日も。
飢えながら。
それでも。
偶然一人の男に助けられた。
リーだった。
中国人の中年男性。
痩せた身体。
鋭い目。
そして身体中に傷跡を持つ男。
だが。
強かった。
傭兵三人を素手で叩きのめすほどに。
「ガキか」
リーはそう言った。
玲司は警戒した。
だが。
リーは食料を分けてくれた。
水もくれた。
結果として。
その出会いが人生を変えた。
その夜。
焚き火の前でリーは語った。
「娘がいる」
それが李美月だった。
当時十二歳。
傭兵達に捕まっていた。
実験材料として。
玲司がブーストという名前を初めて聞いたのもその時だった。
人間を兵器へ変える薬。
筋力。
反射神経。
戦闘能力。
全てを異常強化する。
だが理性が壊れる。
失敗作は死ぬ。
成功しても怪物になる。
そんな薬だった。
そして傭兵達は美月達を実験体にしていた。
「助けたい」
リーは言った。
「だが俺一人では無理だ」
玲司は断ろうと思った。
まだ子供だった。
怖かった。
死にたくなかった。
だが。
翌日。
彼は見てしまった。
檻の中の少女を。
真っ黒な髪。
痩せた身体。
怖がりながらも泣かない目。
それが美月だった。
目が合った。
ほんの一瞬。
それだけだった。
だが。
見捨てられなかった。
だから。
玲司は残った。
戦うことを選んだ。
リーは徹底的に鍛えた。
弓。
ナイフ。
格闘術。
追跡術。
サバイバル術。
生き残るための技術。
全てを。
玲司には才能があった。
異常なほどに。
数週間で大人顔負けになった。
リーすら驚くほど。
だが。
その頃の玲司にはもう一つの出会いがあった。
地下施設へ潜入した時だった。
一人の女性が捕まっていた。
名は神崎京香。
二十四歳。
フリージャーナリストだった。
ブーストの実態を追って島へ来た結果、捕らえられたのだ。
彼女は玲司によくしてくれた。
怪我の手当てをしてくれた。
勉強を教えてくれた。
大人として接してくれた。
だから。
玲司は初恋をした。
その人に。
だが。
それが悲劇の始まりだった。
森を進む玲司の拳が強く握られる。
忘れたことなどない。
神崎京香。
リー。
あの日死んだ人達。
全てはそこから始まったのだから。
そして地下施設では。
拘束された美月が目を覚まそうとしていた。
三年前と同じ場所で。
三年前と同じ悪夢が再び幕を開けようとしていた。




