第9話:大逆転
午前5時。
東の空が白み始めた頃、佳奈と健介は、ついに全50ページに及ぶ資料を完成させた。
本当なら少しでも家に帰ってシャワーを浴びたいところだったが、健介の「鉄は熱いうちに打つべきだ」というアドバイスに従い、本来17時に予定されていたアポを、今日の午前11時に前倒しで取り直すことになった。
始業と同時に健介が神崎へ連絡を入れると、快諾の返事はあっけないほどすぐに返ってきた。
そのため、往復の移動時間を考えると家に帰る余裕など全くなく、二人はオフィスの洗面所で顔を洗い、身なりを整えることしかできなかった。
午前9時。
始業時間が近づき、出社してきた営業第三課の女性陣は、自席でぐったりと休んでいる佳奈の姿を見てヒソヒソと囁き合った。
「あれ、星野さん徹夜? ……東都リテールの件、なんとか資料をでっち上げたってわけ?」
『特攻隊長』の橘咲が呆れたような声を上げた。
エースの佐々木澪が、コーヒーを片手に鼻で笑う。
「どうせ無駄なのに。あの神崎部長が、新人の一夜漬けの資料で納得するわけないじゃない。しかも、17時のアポを11時に前倒ししたんでしょ? 完全に白旗上げて、少しでも早く土下座して終わらせたいだけでしょ」
「あーあ、うちの課の顔に泥塗らないでよね。ほら、あの『窓際のおじさん』も付き添いみたいだし、最悪の絵面だわ」
冷ややかな嘲笑と、突き放すような視線。
しかし、今の佳奈には不思議とそれが全く気にならなかった。
むしろ、彼女たちがどれだけ優秀であっても、絶対にこの『完璧な資料』のレベルには到達できないという確信があったからだ。
佳奈は何も言い返さず、隣の席で「いやぁ、朝は眠いねぇ」と欠伸をしている健介とそっと目を合わせ、小さく、けれど力強く頷き合った。
◇
午前11時。
東都リテールグループ本社・大会議室。
昨日の応接室とは打って変わり、神崎部長は二人の部下を両脇に従え、冷たい視線を佳奈たちに向けていた。
「……こんなに早くどうしたんですか。昨日の今日で、お遊びの資料でも作ってきたんですか?」
神崎の右隣に座る若い部下が、苛立ちを隠そうともせずに言い放った。
左側の部下も「時間の無駄ですね」と冷笑を浮かべている。
彼らにとってみれば、常識的に1週間はかかるレベルの要求に対し、翌日の午前中にノコノコとやって来たのだ。
早々に諦めて、適当な謝罪と妥協案で許しを乞うつもりだろうと完全に高を括っていた。
「お時間は取らせません。……ご覧ください」
佳奈は深く一礼すると、持ち込んだノートパソコンを操作し、会議室の巨大なスクリーンに資料を投影した。
『東都リテール 利益率3%向上に向けた、完全連動型・物流再構築プラン』
その重厚で洗練された表紙が映し出された瞬間、嘲笑しようとしていた部下たちの表情がピタリと止まった。
「それでは、1ページ目からご説明いたします」
佳奈は昨日までのオロオロとした新人ではなく、プロの営業担当者として凛とした声で話し始めた。
冒頭の1ページ目。
そこに示されていたのは、東都リテールの既存の物流システムが抱える『見えない無駄』を的確に突いた、驚異的な分析データだった。
神崎の目の色が、スッと変わった。
「従来のルートでは、関東近郊の30店舗において、納品から陳列までの間に平均4.5時間のアイドルタイムが発生しています。我々はこのタイムロスに自社のプロモーションを完全連動させ、在庫滞留日数を劇的に削減します。これにより――」
次々と切り替わるスライド。
それは机上の空論などではなく、現場の泥臭い動線データから、数円単位の配送コストの相殺まで、ありとあらゆる懸念材料を潰し切った、芸術的なまでに理路整然としたビジネスプランだった。
「な……っ」
先ほどまで冷笑していた部下たちが、完全に言葉を失い、絶句してスクリーンを見上げていた。
昨日までの佳奈の資料とは、比べものにならない。
まるで優秀なコンサルティングチームが何ヶ月もかけて練り上げたかのような、圧倒的な情報量と説得力。
「……以上が、我々からの『答え』です」
佳奈が最後のスライドを締めくくると、会議室には水を打ったような静寂が降りた。
数秒後。
右側の部下が、我に返ったようにバンッと机を叩いた。
「ば、馬鹿な! こんな緻密なデータ、たった一晩で作れるわけがない! 本当は、最初からこのプランを用意して隠し持っていたんだろう!? 恩着せがましく見せるための、御社のくだらないパフォーマンスじゃないのか!」
部下の怒声が響く。
確かに、それほどまでに異常なクオリティと完成スピードだったのだ。
佳奈が言い返そうとした、その時だった。
「……やめろ」
神崎部長が、低く静かな声で部下を制した。
神崎の鋭い視線は、スクリーンではなく、佳奈と健介の『姿』を真っ直ぐに捉えていた。
綺麗に整えられてはいるものの、一晩中着ていたことで僅かにヨレてしまったスーツのシワ。
そして、佳奈の目の下にうっすらと浮かぶ隈と、それでも力強く前を見据える瞳の奥の光。
ビジネスの最前線で修羅場をくぐり抜けてきた神崎には、それが「パフォーマンスのためにわざと作ったもの」ではないことなど、一目見れば分かった。
二人は本当に、この信じられないレベルの資料を、たった一晩の徹夜で、死力を尽くして形にして持ってきたのだ。
「……神崎部長」
佳奈が緊張で息を呑むと、神崎はゆっくりと立ち上がり、スッと目を閉じた。
そして、深く息を吐き出すと、これまで見せたことのない穏やかで、しかし熱を帯びた声で口を開いた。
「……参りました。完璧な提案です」
「え……っ」
「本当は、4日後の役員会でこの件を議題に上げるつもりでしたが……予定を変更します。これほどの資料があるのなら、今日の午後の役員会で、私が責任を持って彼らを説得してみせます」
神崎はそう言うと、佳奈と健介に向かって、深く頭を下げた。
「昨日の無礼な発言、撤回させていただきます。あなた方は、我が社にとって最高のビジネスパートナーだ。……結果は、夕方までに必ず私からお電話します」
その言葉に、佳奈の目に、熱いものがこみ上げた。
隣を見ると、健介が「ほらね」とでも言うように、優しく微笑んで小さく頷いていた。
◇
17時30分。
営業第三課のオフィスは、一日の業務を終え、帰り支度をする女性陣のざわめきに包まれていた。
佳奈は自分のデスクで、両手を握りしめ、ノートパソコンの横にある固定電話を祈るように見つめていた。
時刻はすでに夕方。
約束の時間は過ぎようとしている。
「ちょっと星野さん。いつまで残ってる気? あんた徹夜でしょ、もう帰りなさいよ」
帰り支度を終えた中堅の中川留美が、呆れたように声をかけた。
「あ、でも、神崎部長からお電話が来るかもしれなくて……」
「まだ言ってんの? 午前中に特攻して、玉砕したんでしょ? あの神崎部長が、大失敗した新人にわざわざお祈り電話なんてかけてくるわけないじゃない」
「そうそう。諦めが肝心よ。次、次」
澪と咲も、佳奈の未練がましい態度に冷たい視線を送る。
彼女たちからすれば、佳奈が奇跡を起こしたなどとは微塵も思っていない。
完全に取引停止になり、現実逃避で電話を待っている滑稽な新人にしか見えなかったのだ。
その時だった。
ジリリリリッ!
静かなオフィスに、佳奈の固定電話の着信音がけたたましく鳴り響いた。
フロアにいた全員の視線が、一斉に佳奈のデスクに向く。
佳奈は弾かれたように受話器を取った。
「は、はいっ! 営業第三課、星野です!」
「――神崎です。星野さん、やりましたよ」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、普段の冷徹な神崎からは想像もつかないような、少し興奮した声だった。
「役員会、満場一致で承認を勝ち取りました。彼らも、あなたの作ってくれたあの資料の緻密さに舌を巻いていましたよ」
「あ……っ、ほんと、に……?」
「ええ。取り急ぎ、本契約に向けた電子契約の仮フォーマットを、先ほど星野さんのメールアドレスに送信しておきました。後ほどご確認いただけますか?」
佳奈は震える手でマウスを動かし、自分のメーラーを開いた。
そこには確かに、『【重要】東都リテールグループ:本契約に関するご案内』というタイトルのメールが届いていた。
「あ……ああ……っ」
佳奈の目から、涙が溢れ出した。
言葉にならない感情が喉の奥で詰まり、嗚咽が漏れる。
その様子を見ていたオフィス中の女性陣は、一瞬にして空気を凍らせた。
誰もが、取引停止を告げられて泣いているのだと思い、腫れ物に触るように視線を逸らした。
ただ一人、隣の席でインスタントコーヒーを啜っている健介だけが、結果を完全に確信し、満足そうに目を細めていた。
佳奈は必死に涙を拭い、大きく息を吸い込むと、静まり返ったオフィス中に響き渡るような大声で叫んだ。
「――っ、本契約、ありがとうございます!!」
「……は?」
その瞬間、帰り支度をしていた澪の持っていたカバンが、床にドサッと落ちた。
留美も、咲も、遠くで見ていた課長の霧島玲奈でさえも、全員が信じられないものを見るように佳奈を凝視した。
「ほ、本当に……本当にありがとうございます……っ! 私、精一杯頑張りますから……っ!」
電話口でポロポロと涙を流しながら、何度も何度も深く頭を下げる佳奈。
その声は、冷徹で個人主義だった営業第三課のオフィスに、確かな特大の風穴を開けていた。
誰もが『絶対に不可能だ』と見捨てた超大型案件を、この一番要領の悪い新人が――表向きは、たった一人で――大逆転で勝ち取ってしまったのだ。
電話を切り、佳奈はデスクに突っ伏して声を出して泣き始めた。
極度の緊張からの解放と、努力が報われた圧倒的な喜び。
その時、佳奈の頭にポン、と温かい手のひらが置かれた。
「よく頑張ったね。最高のプレゼンだったよ、星野さん」
顔を上げると、そこにはいつものように、のんきで優しい『冴えないおじさん』の笑顔を浮かべた健介が立っていた。
佳奈は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、彼に向かって、これまでで一番の満面の笑みを向けた。
周囲の先輩たちが呆然と立ち尽くす中、佳奈にとって、目の前にいる健介こそが、誰よりもかっこいい『世界でたった一人のヒーロー』だった。




