第10話:二人だけの秘密
翌朝。
出社時間の少し前、午前8時30分。
健介はオフィスのフロア端にある自動販売機で、いつものように微糖の缶コーヒーを買い、プルタブを開けた。
ふと、背後にある給湯室の入り口から、他部署の営業マンたちのヒソヒソとした話し声が漏れ聞こえてきた。
「おい、聞いたか? 営業第三課の新人、星野佳奈が東都リテールグループと本契約を結んだらしいぞ」
「はぁ? 嘘だろ。あそこ、前任の課長が何年も通い詰めて、結局短期のスポット契約しか取れなかった超難攻不落のワンマン企業だろ? それを今年入ったばかりのポンコツ新人が?」
「マジだって。今朝、法務部に東都側から電子契約の正式なドラフトが回ってきたらしい。……あの規模の全店舗連動プロモーションなら、ざっと試算しても年間10億は下らない超大型案件だぞ。それを新人が一人でって……一体どういう手を使ったんだよ」
健介は無表情のまま缶コーヒーを一口啜った。
(やれやれ、社内の噂が回るのは相変わらず早いな)
ビジネスの世界において、結果はすべてだ。
ましてや年間10億円を超える規模の長期契約となれば、社内における『星野佳奈』という人間の評価は、今日から劇的に変わることになる。
健介は彼らの会話を聞かなかったふりをして、ゆっくりとした足取りで第三課のオフィスへと向かった。
◇
「星野さん。ちょっと、こっちに来なさい」
第三課のオフィスに足を踏み入れると、すでにそこには張り詰めた異常な緊張感が漂っていた。
課長の霧島玲奈が、最奥の課長席で腕を組み、冷徹な視線を佳奈に向けていた。
「はい、課長」
佳奈は以前のようなオドオドとした態度を見せず、背筋をピンと伸ばして玲奈の課長席の前に立った。
玲奈は手元のタブレット端末に表示された、東都リテールからの契約書ドラフトと、佳奈が提出した全50ページに及ぶ『利益率3%向上プラン』のデータを交互に見つめ、信じられないものを見るように目を細めた。
「……まさか、あなたがあの東都リテールから本契約を勝ち取ってくるなんてね。前任の課長ですら成し得なかった、うちの部署の長年の悲願よ。しかも、こんなに緻密な物流再構築のデータ、一体どうやって一晩で組み上げたの?」
「それは……」
佳奈は一瞬だけ言葉に詰まった。
本当なら「すべて沢村さんがやってくれました」と言いたい。
だが、健介からは『自分の手柄にしておけ』と厳命されている。
「各店舗の現場の方々にヒアリングを重ねていく中で、物流のアイドルタイムに気がつきまして。過去のデータを引っ張り出し、無我夢中でシミュレーションを繰り返した結果、この数字に行き着きました。……運が良かっただけです」
佳奈が堂々と、淀みなくそう答えると、オフィスにいた先輩たちの間にどよめきが走った。
あのいつも泣きべそをかいていた要領の悪い新人が、まるで熟練のコンサルタントのように理路整然と答えたのだ。
玲奈は深く息を吐き出し、タブレットをデスクに置いた。
「……見事よ。結果を出したことには、素直に敬意を表します。この案件は、引き続きあなたがメイン担当として最後まで責任を持ちなさい。期待しているわ」
「はいっ! ありがとうございます!」
佳奈が深く一礼して自席に戻る。
しかし、ここからが『女社会』の難しく、そして厄介なところだった。
玲奈は立場上、結果を出した佳奈を褒めた。
だが、その声色はどこか冷たく、心の底から喜んでいるようには到底聞こえなかった。
周囲の先輩たちに至っては、完全に佳奈を見る目が変わっていた。
それは「後輩の成長を喜ぶ目」ではなく、「自分の立場を脅かすかもしれない異物を見る目」であり、強烈な『嫉妬』と『やっかみ』が入り混じった視線だった。
「……ねぇ、聞いた? 10億ですって」
「一晩で急にあんなデータを作れるわけないじゃない。どうせ、どこかの下請けに泣きついて丸投げしたんでしょ」
「それどころか、相手はあの気難しい神崎部長よ? 若さと愛嬌振りまいて、どうせ『そういうこと』でもしてハンコ押させたんじゃないの?」
エースの佐々木澪や、『特攻隊長』の橘咲たちが、佳奈にも聞こえるような絶妙なボリュームでヒソヒソと囁き合っている。
「神崎と寝て契約を取った」。
そんな根も葉もない、あまりにも下劣な噂までが、たった数十分でオフィスの空気の中に蔓延し始めていた。
隣の席では、健介がノートパソコンを開いたまま、何も聞こえていないような顔をしている。
普通なら、こんな謂れのない中傷を浴びせられれば、新人の女の子などショックで泣き出してしまうか、心を折られてしまうだろう。
だが佳奈は、涼しい顔でキーボードを叩き続けていた。
周囲の冷ややかな視線も、下劣な囁きも、完全に『スルー』していたのだ。
唇を結び、モニターを見つめるその瞳には、以前のような悲壮感や怯えは微塵もなかった。
ふと視線を感じて隣を見ると、健介がわずかに目を見開いていた。
すぐにいつものんきな表情に戻ってしまったが、その一瞬だけ、感心したような色が浮かんだ気がした。
佳奈にとって、東都リテールとの壮絶な交渉と、その後に味わった圧倒的な『大逆転のカタルシス』は、仕事に対する価値観を根本から作り変えてしまっていた。
(何を言われたって構わない。私は、あの沢村さんみたいな、強くて隙のない営業担当になるんだから)
佳奈の胸の中にあるのは、仕事で成果を出すことの強烈な『楽しさ』と、健介という手の届かない高みへ少しでも近づきたいという『前向きな熱』だけだった。
周囲の嫉妬など、もはや彼女の視界には入っていなかった。
◇
とはいえ、佳奈の実務スキルが急に上がったわけではない。
実務を進める上で、まだまだ分からないことや、壁にぶつかることは山のようにあった。
本当なら、健介にマンツーマンでレクチャーをしてほしかった。
しかし、あの徹夜明けの朝に「もっと知りたいです」と告げた佳奈に、健介はやんわりと首を横に振ったのだ。
『ダメだよ。オフィスで僕と星野さんが仲良く話し込んでいたら、ただでさえ神経を尖らせている先輩たちを逆撫ですることになる。女の嫉妬ってのは怖いからね。……だから、何かあったら社内チャットかメールを使いなさい。僕がこっそり裏から手を回すから』
その言葉通り、二人は現在、完全なる『秘密のやり取り』を行っていた。
佳奈がノートパソコン上で、見積もりの計算式が分からずフリーズしていると、画面の右下にポンッと小さなチャットの通知がポップアップする。
『送信者:沢村健介』
『C列の原価に0.8を掛けて、E列のセルにオートフィル。それで全部の利益率が統一されるよ』
佳奈はハッとして、指示通りにマウスを動かす。
すると、ものの数秒で複雑な見積もりが完成してしまう。
佳奈がチャットで「ありがとうございます! 助かりました(泣)」と返信し、そっと隣の席に視線を送る。
健介は相変わらず、少し猫背で「いやぁ、目が疲れるねぇ」と独りごちながら、全く佳奈の方を見ようとはしない。
周囲の人間は誰一人として、この『窓際のおじさん』が、エース級の的確な指示を新人にリアルタイムで出し続けていることなど気づいていない。
(ふふっ……)
佳奈はモニターの影で、誰にも見られないように小さく微笑んだ。
冷たくて息の詰まるオフィスの中で、健介と自分だけが繋がっている、秘密のホットライン。
それがたまらなくスリリングで、佳奈の心をどうしようもなく満たしていた。
そして、チャットやメールだけではどうしても解決できない複雑な案件にぶつかった時だけ、佳奈は「残業します」と宣言してオフィスに残り、皆が帰った後の密室で、健介から直接レクチャーを受けていた。
20時。
誰もいなくなった静かなオフィス。
「ここはね、クライアントの心理として『コスト削減』よりも『売上増加』を強調した方が刺さるんだ。だから、このスライドのグラフは赤じゃなくて、右肩上がりの青を使った方がいい」
健介が佳奈のデスクの横に立ち、モニターを指さしながら、低く落ち着いた声で解説をする。
すぐ隣から香ってくる、微かな整髪料と、大人の男の清潔な匂い。
佳奈は健介の横顔を間近で見上げながら、真剣にメモを取っていた。
「なるほど……。沢村さんって、本当に何でも分かっちゃうんですね」
「何でもは分からないよ。ただ、君の先輩たちより少しだけ長く、泥水を啜りながらビジネスの世界で生きてきたってだけさ」
健介は疲れたように笑い、佳奈の頭をポン、と軽く撫でて自分の席へと戻っていった。
その大きな手のひらの温もりが髪に残っているのを感じながら、佳奈は自分の心臓が、先ほどからずっと早く、そして甘く跳ね続けていることに気づいていた。
(……私、沢村さんのことが……)
佳奈は、キーボードを叩く健介の広い背中をじっと見つめた。
それはもはや、「仕事ができる凄い先輩への憧れ」などという、単純な尊敬の念ではなかった。
もっと根本的で、抗いようのない、一人の男性としての『健介』に対する、明確な好意。
恋心だった。
佳奈はふと、自分の過去の学生時代を思い返していた。
『星野佳奈』という人間は、決して元から「要領の悪いポンコツ」だったわけではない。
むしろ、都内の有名な進学校から難関大学へとストレートで進学した、絵に描いたような高学歴の優等生だったのだ。
中学、高校、大学と、佳奈は常に「生徒会長」や「ゼミの代表」といったリーダーのポジションを任されてきた。
頭の回転が速く、誰に対しても分け隔てなく接し、面倒見が良い。
おまけに、小動物のような愛らしい顔立ちをしている。
当然、男子からのアプローチは絶えなかった。
しかし、彼らが佳奈に向ける好意は、いつもどこか歪んでいた。
『佳奈ちゃん、このレポートの書き方教えてくれない?』
『星野、次の文化祭の企画書、お前に任せていいか? お前なら一人で完璧にできるだろ』
好意を持っていると言いながら近づいてくる男子たちは皆、佳奈の『有能さ』と『面倒見の良さ』に甘え、面倒なことをすべて佳奈に押し付けてきたのだ。
彼らにとって佳奈は、対等な女性というよりも、自分を甘やかしてくれる「都合の良い母親」や「優秀な家庭教師」でしかなかった。
佳奈自身も、それに反発することはなかった。
「私がやらなきゃ」「私がしっかりしなきゃ」という強迫観念のような責任感に縛られ、誰かに頼るという選択肢を最初から捨てて生きてきた。
特に、男性に対して「甘える」「守ってもらう」という経験など、これまでの人生で一度も味わったことがなかったのだ。
だが、学生時代の成功体験は、営業第三課ではまるで通用しなかった。
正解のある課題を速く正確に解く力と、正解のない相手の懐に飛び込む力は、まったくの別物だったのだ。
しかも、連携も教育も存在しないこの部署では、分からないことを分からないと言える相手すらいない。
だからこそ、この会社に入り、強烈なダメ出しとプレッシャーの中で「自分が何もできないポンコツ」であるという現実に直面した時、佳奈は完全に心が折れてしまっていた。
これまで築き上げてきた『有能な自分』というアイデンティティが崩壊し、どうしていいか分からず、ただ泣くことしかできなかった。
そんな、どん底の暗闇にいた佳奈の前に現れたのが――沢村健介だった。
『少しでも足しになれば。……あんまり夜更かししちゃダメだよ』
『星野さんは真面目で、すごく一生懸命だね。……絶対に大丈夫。自分のやってることに、もっと自信持っていいんだよ』
『若い女の子が、僕みたいな男を簡単に部屋に入れちゃダメだ』
健介は、佳奈に何も求めなかった。
仕事の成果も、肉体的な見返りも、そして「有能な自分」であることすらも。
ただ無条件に、不器用で泣き虫なありのままの佳奈を肯定し、圧倒的な実力で彼女のピンチを救い出し、そして優しく守ってくれた。
佳奈の人生において、初めて現れた『心の底から頼り切ることができる、絶対的な包容力を持った男性』。
それが、23歳も年上の、妻と別居中の、社内では『冴えないおじさん』を演じている男だったというだけのことだ。
「……沢村さん」
静かなオフィスに、佳奈の小さな声が響いた。
健介が「ん?」と振り返る。
「あの、私……。本当に、沢村さんみたいになりたいです。仕事も、それ以外も」
佳奈が真っ直ぐな瞳でそう告げると、健介は数秒間目をパチクリと瞬かせ、やがて困ったように眉を下げて優しく笑った。
「よした方がいいよ。僕みたいになったら、会社で誰からも相手にされなくなって、窓際の寂しいおじさんになっちゃうよ」
「……ふふっ、そうですね。でも、私は絶対に、沢村さんの凄さを忘れませんから」
佳奈は微笑み返し、再びモニターへと向き直った。
胸の奥で燃え上がったこの熱い感情の正体に、もう迷いはなかった。
(私は、沢村さんが好き……。絶対に、この人に振り向いてもらうんだ)
誰にも言えない秘密の恋が、静まり返ったオフィスの中で、確かな熱を帯びて産声を上げていた。




