第11話:初めての嘘
東都リテールグループとの年間10億円に及ぶ超大型契約。
そのメイン担当という重責を背負った星野佳奈の毎日は、まさに嵐のように過ぎ去っていった。
プロジェクトは順調に滑り出していたものの、いざ実務レベルで動き始めると、細かなトラブルや想定外の課題が山のように噴出した。
各店舗の在庫システムのズレ、配送業者のスケジュール調整、現場スタッフからの不満の声。
そのたびに佳奈は壁にぶつかり、必死に頭を抱えながら自分なりの解決策を模索し続けた。
そして、どうしても自分一人の力では突破できない壁に直面した時だけ、佳奈は健介に「SOS」を出した。
『この配送ルートの調整、どうしてもうまくいかなくて……沢村さんなら、どうしますか?』
誰もいなくなった残業時間の密室。
あるいは、チャットでの秘密のやり取り。
健介はいつだって、佳奈が抱える問題を瞬時に見抜き、的確なアドバイスをくれた。
だが、彼は決して佳奈を「甘やかす」ことだけはしなかった。
『星野さん、このデータ分析は甘いよ。東都の神崎部長は、こういう希望的観測に基づいた数字を一番嫌う。もう一度、現場のヒアリングからやり直しだ』
時には厳しい声で、ハッキリとダメ出しをする。
それは、他の先輩たちが佳奈に向ける「足手まといへの苛立ち」ではなく、プロの営業マンとして佳奈を一人前に育て上げようとする、厳しくも温かい『指導』だった。
(沢村さんは、本当に私のことをちゃんと見てくれている……)
ミスを指摘され、作り直しを命じられるたびに、佳奈は落ち込むどころか、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
本気でぶつかってきてくれる。
期待してくれている。
その事実がたまらなく嬉しくて、心地よかった。
そして、どうしようもないほどに、自分が沢村健介という一人の男性に強く惹かれている。
その自覚が、日に日に佳奈の心を占めていった。
◇
だが、仕事面での二人の絆が深まる一方で、プライベートにおける健介のガードは鉄壁だった。
「沢村さん、この間の案件のお礼、今度こそさせてください! 私、すごく美味しいお店見つけたんです」
給湯室で二人きりになったタイミングを見計らい、佳奈が勇気を出して食事に誘っても。
「気持ちは嬉しいけど、いいよ。僕の方が給料高いんだから、若い子が奢る必要なんてない。それに、おじさんと二人でご飯食べても気を遣うだけでつまらないでしょ?」
健介はいつもそう言って、のらりくらりと躱してしまうのだ。
あの喫茶店での出来事以来、佳奈が何度口実を作って誘っても、決して彼が乗ってくることはなかった。
会社で二人きりで話す時間は限られている。
もっと沢村さんのことが知りたい。
私生活の顔が見たい。
他の誰も知らない彼を独占したい。
膨れ上がる恋心と、越えられない年齢や立場の壁にもどかしさを募らせた結果――佳奈はついに、優等生として生きてきた彼女の人生で『一番大きな嘘』をつくことを決意した。
◇
金曜日の19時。
都内の一等地にある、夜景が見渡せる瀟洒なフレンチレストラン。
薄暗い間接照明に照らされた2人掛けのテーブル席で、佳奈は心臓が口から飛び出そうになるのを必死に堪えながら、入り口の方向を見つめていた。
やがて、スーツ姿の健介が店員に案内されてやってくる。
「やあ、星野さん。お待たせ」
「あ、沢村さん……っ! お疲れ様です」
健介は席に着くなり、少し怪訝そうな顔で周囲を見渡した。
「東都の神崎部長たちからの懇親会の誘いって聞いてたけど……他の皆さんは? 随分と静かなお店だし、ここ、2人掛けのテーブルだよね?」
佳奈が『東都リテールの皆さんから懇親会に誘われたのですが、私一人では心許ないので、沢村さんもどうか一緒に来てください』と頼み込んだのだ。
仕事の、しかもあの大事なクライアントが絡むとなれば、健介は絶対に断れない。
佳奈は彼が持つ責任感の強さを逆手に取って、彼をここまで引っ張り出したのである。
佳奈はテーブルの下でギュッと拳を握りしめ、深く頭を下げた。
「……ごめんなさい。嘘、つきました。神崎部長たちは来ません」
「え?」
「私……こうでもしないと、沢村さんが絶対に一緒にご飯に行ってくれないから……っ。だから、ごめんなさい……!」
静かな店内に、佳奈の震える声が落ちる。
健介は目を丸くして数秒間固まっていたが、やがて大きくため息をつき、片手で顔を覆った。
「……やれやれ。星野さんにそんな古典的な嘘をつかれるとは思わなかったよ。神崎部長がフレンチなんて柄じゃないなとは思ったんだけどね」
呆れたような健介の声に、佳奈は(帰られてしまうかもしれない)と身をすくませた。
だが健介は、怒るでもなく、立ち上がるわけでもなく、困ったように優しく微笑んだ。
「まあ、来てしまったものは仕方ないね。今日はとことん、星野さんの『お礼』に付き合わせてもらうよ」
「……っ、ありがとうございます!」
佳奈の顔にパァッと花が咲く。
そこからの時間は、佳奈にとってまさに夢のようなひとときだった。
美味しい料理、グラスに注がれるワイン。
仕事の愚痴や、健介の昔の失敗談。
会社では絶対に見せない彼の柔らかい表情を独り占めしながら、佳奈はこれまで生きてきた中で一番楽しく、幸せな時間を過ごしていた。
そして食事が終わり、店員がテーブルにやってきた時。
健介がさりげなく財布を取り出そうとしたのを、佳奈が制した。
「あ、お会計はすでに予約の時にカードで済ませてありますから」
「えっ? いやいや、いくらなんでもこんな高いお店、星野さんに払わせるわけには……」
「いいんです! あの喫茶店の時、ご馳走するって言ったのに払わせちゃいましたから。今日は絶対に私の奢りです」
佳奈が胸を張って言い切ると、健介は「参ったな」というように頭を掻いた。
さすがにこのクラスのレストランで、23歳の新人にすべてを出させるのは、大人の男として居心地が悪かったのだろう。
「……分かった。じゃあ、2軒目は僕の奢りってことでどうかな。僕の行きつけの店でよかったら、だけど」
「っ、行きます!」
佳奈が食い気味に返事をすると、健介は苦笑しながら立ち上がった。
◇
健介が連れて行ってくれたのは、フレンチレストランとは打って変わって、サラリーマンで賑わうガード下の煙たい大衆居酒屋だった。
「大将、レモンサワー2つ」
慣れた様子で注文する健介。
壁には手書きのメニューがひしめき合い、隣の席との距離も近い。
先ほどまでの洗練された空間とは真逆だが、佳奈にとっては、健介の「日常」に一歩足を踏み入れたようで、たまらなく嬉しかった。
運ばれてきたジョッキを合わせ、乾杯をする。
「いやぁ、フレンチも美味かったけど、やっぱりこういう店の方が落ち着くね」
健介がレモンサワーを呷り、焼き鳥の串を手に取る。
そのリラックスした横顔を見つめながら、佳奈も自分のジョッキに口をつけた。
「……星野さん」
不意に、健介のトーンが少しだけ真面目なものに変わった。
佳奈が姿勢を正すと、健介はジョッキの水滴を指でなぞりながら、静かに口を開いた。
「今日はご馳走様。すごく美味しかったし、楽しかったよ。……でもね、ああいう嘘は、もうやめてほしい」
「っ……」
「君は真っ直ぐで、真面目で、一生懸命なのが一番の長所なんだ。仕事でも、プライベートでもね。だから、あんな小狡い嘘は君には似合わないよ。俺を誘い出すためだったとしても、次からはやめなさい」
それは、保護者が娘を諭すような、真っ当で、優しく、そして佳奈との間に明確な『壁』を引く言葉だった。
その言葉を聞いた瞬間、佳奈の中で張り詰めていた何かが、プツンと切れた。
「……似合わないのは、今の私の方です」
「星野さん?」
佳奈は俯いたまま、ギュッと自分の膝を握りしめた。
目頭が熱くなり、視界が滲んでいく。
「私、本当は全然有能なんかじゃない。毎日、沢村さんが見えないところで助けてくれてるから、凄いねって褒められてるだけ。実力なんて何もないのに、みんなから期待されて……そんなの、本当の私じゃない」
「……それは違うよ。君が努力してるからこそ――」
「沢村さんのせいです」
佳奈は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった瞳で、健介を真っ直ぐに睨みつけた。
「私が嘘つきになったのも、実力不相応に褒められて苦しいのも……全部、沢村さんのせいです。沢村さんが私を助けるから。優しくするから。……こんな、どうしようもない気持ちにさせるのも、全部沢村さんのせいじゃないですか……っ!」
周囲の喧噪にかき消されそうな、けれど切実な叫び。
健介は言葉を失い、目を見開いた。
佳奈はそのまま、手元のレモンサワーをゴクゴクと一気に喉に流し込んだ。
「沢村さんになら……私、抱かれてもいいです」
「……っ!? ほ、星野さん、いくらなんでも酔いすぎだ。声が大きい」
突然の爆弾発言に、普段は冷静な健介が本気で慌てふためき、周囲を見回す。
だが、佳奈は止まらなかった。
「酔ってません! 本気です。私、沢村さんのことが――」
「星野さん。君は今、極度のプレッシャーの中で俺に助けられて、吊り橋効果みたいな幻想を抱いているだけだ。それは恋じゃない」
健介が厳しい声で佳奈の言葉を遮った。
幻想。
その言葉に、佳奈の心がズキリと痛む。
「幻想なんかじゃありません……! 私の本当の気持ちです!」
佳奈は反発するように、空になったジョッキをドンとテーブルに置き、「すみません、日本酒ください!」と店員を呼んだ。
「おい、ペースが早いよ。もうやめなさい」
健介が止めようとするが、佳奈は意地になったように日本酒を呷り続けた。
思いを否定された悔しさ。
子供扱いされた悲しさ。
それらを酒で流し込むように飲み続けた結果――佳奈は1時間もしないうちに、テーブルに突っ伏してしまった。
◇
「……まったく。だから言ったのに」
深夜のタクシーの後部座席。
健介は、隣でぐったりと寄りかかってくる佳奈の肩を支えながら、小さくため息をついた。
窓の外には、見覚えのある景色が流れている。
以前二人で訪れた、あのレトロな喫茶店がある街だ。
佳奈が『この近くに住んでいる』と言っていたのを覚えていたため、何とか最寄りの場所までは辿り着いた。
「星野さん。着いたよ。家、この辺だろ?」
健介が軽く肩を揺すると、佳奈は「んん……」と目を覚まし、虚ろな目で周囲を見た。
「きもち、わるい……」
「大丈夫か? ここで降ろすけど、一人で歩ける?」
「むり……歩けないです。お願い、マンションまで……おんぶして……」
佳奈が力なく健介のスーツの袖を掴む。
深夜の路上で若い女性を一人放り出すわけにもいかず、健介は首を振りながらタクシーの会計を済ませた。
佳奈の腕を肩に回し、千鳥足の彼女を支えながら、静かな住宅街を歩く。
やがて、駅から数分の場所にあるこぢんまりとしたデザイナーズマンションの前に着いた。
「部屋は何階?」
「さんかい……」
エレベーターに乗り、佳奈の言う通りに部屋の前まで辿り着く。
佳奈のカバンから鍵を取り出し、ドアのロックを開けた。
「よし、着いたぞ。中まで送るから、ベッドに――」
健介が佳奈を支えたまま、薄暗い玄関に足を踏み入れた。
そのドアがバタン、と閉まり、密室になった――その瞬間だった。
「――っ」
今までぐったりと体重を預けていたはずの佳奈が、突然、強い力で健介の首に腕を回し、その身体にぴったりとしがみついてきた。
「……星野さん?」
健介が驚いて身を引こうとするが、佳奈の細い腕は、絶対に逃がさないとばかりに健介の背中に強く回されていた。
佳奈がゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、酒に酔った虚ろなものではなかった。
涙で潤みながらも、はっきりと健介を見据える、強い光を放っていた。
「……嘘、つきました。本当は、そこまで酔ってません」
「星野さん、君……」
「これで、嘘は最後にしますから。だから……お願い」
佳奈の体温と、甘い香水、そして微かなアルコールの匂いが、健介の理性を激しく揺さぶる。
薄暗い玄関で、二人の身体は隙間なく密着していた。
健介は必死に冷静さを保とうと、佳奈の肩を掴んで引き剥がそうとした。
「……離れなさい。俺には妻がいるんだ。君みたいな若い子が、こんなことしちゃダメだ」
「知ってます。別居してることも。……知ってて、こうしてます」
佳奈は一歩も引かなかった。
健介のシャツの胸元をギュッと握りしめ、つま先立ちになって、彼の顔に自分の顔を近づける。
「私……ずっと、有能な優等生でいなきゃいけないって思って生きてきました。男の人に頼ることも、甘えることもできなかった。……だから」
佳奈の震える唇から、静かで、そして男にとって抗いようのない威力を持った言葉が紡がれる。
「……私、初めてなんです」
「な……っ」
健介の息が止まった。
その言葉の持つ意味の重さに、彼の中で張り巡らされていた『大人の余裕』という防壁に、決定的な亀裂が走る。
「これ以上……恥をかかせないでください」
佳奈は涙をひとしずくこぼし、そのまま、健介の唇に自分の唇を押し当てた。
不器用で、たどたどしい、けれど熱くて柔らかい、初めてのキス。
静まり返った深夜のマンションの玄関で、二人の関係はついに、後戻りのできない一線を越えようとしていた。




