第12話:佳奈と健介
静まり返った深夜のマンション。
薄暗い玄関で、星野佳奈の震える唇が、健介のそれに触れた。
不器用で、たどたどしい、けれど熱くて柔らかい、初めてのキス。
ほんの数秒の触れ合いだったが、それは健介の中に張り巡らされていた『大人の余裕』という強固な防壁を、粉々に打ち砕くには十分すぎる破壊力を持っていた。
「……っ」
健介は低く唸るような息を吐き出した。
(……ダメだ)
頭の芯で、辛うじてまだ動いている理性が警鐘を鳴らしている。
この子は23歳。
義娘の結愛と、いくつも変わらない。
左手の薬指には、まだ指輪が残っている。
ここで肩を押し返し、タクシーを呼んで、朝には何事もなかった顔で「昨日は飲みすぎたね」と笑ってやればいい。
それが、46年生きてきた大人の男が出すべき、唯一の正解のはずだった。
だが。
薄闇の中から自分を見上げてくる佳奈の瞳は、あまりにも真っ直ぐだった。
そこにあるのは、酔いでも勢いでもない。
断られることを覚悟した上で、それでも震える手を伸ばしてきた人間の目だ。
(……この目を突き放せるほど、俺は大人じゃなかったらしい)
健介の中で、最後の一線が静かに音を立てて折れた。
健介は佳奈の肩を掴んでいた手を離し、逆に彼女の細い腰を強く引き寄せた。
「……沢村、さっ、んんっ……!」
今度は、健介の方からだった。
先ほどまでの佳奈のたどたどしいキスとは比べものにならない、大人の男の深く、貪るような口づけ。
強引に唇をこじ開けられ、熱い舌が佳奈の口腔内へと侵入してくる。
アルコールが混じった、成熟した男の匂いが佳奈の全身を包み込んだ。
「んっ……ふぁ……ぁっ……」
呼吸の仕方すら分からなくなり、佳奈は健介の広い背中にしがみつきながら、ただ翻弄されるがままに舌を絡ませた。
足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった瞬間、健介の逞しい腕が佳奈の膝裏と背中に回り、軽々と彼女の身体を抱き上げた。
「……後悔しても、もう遅いよ。星野さん」
耳元で囁かれたその声は、普段の『冴えないおじさん』ののんきな響きではなかった。
低く、落ち着いていて、それでいて隠しきれない熱を孕んでいる。
会社では誰一人として聞いたことのない、一人の男としての声だった。
「後悔なんて……しません」
佳奈が潤んだ瞳で見つめ返すと、健介は小さく笑い、そのまま彼女を抱きかかえたまま、寝室へと足を踏み入れた。
◇
柔らかいベッドの上に、そっと下ろされる。
こぢんまりとした寝室は、佳奈らしく几帳面に片づけられていた。
枕元には読みかけのビジネス書が伏せて置かれ、その隣の小さなトレーに、見覚えのある黒いUSBメモリが大切そうに収まっている。
(……ずっと、持っていたのか)
胸の奥が、鈍く痛んだ。
部屋の明かりはつけられず、窓から差し込む街灯の微かな光だけが、二人の姿を照らしていた。
健介はネクタイを緩めながら、ゆっくりと佳奈の上に覆いかぶさった。
「本当に……初めてなんだね」
「はい……。今まで、ずっと気を張って生きてきて。……男の人を、こんなふうに好きになったのも、初めてです」
佳奈が正直に打ち明けると、健介の瞳の奥で何かが揺れた。
彼は愛おしそうに佳奈の頬を撫で、再び深く、甘いキスを落とした。
健介の指がブラウスのボタンに触れるたび、佳奈の胸は大きく高鳴った。
けれど同時に、自分の身体が小刻みに震えて止まらないことにも気づいていた。
怖いわけではない。
ただ、生まれて初めて他人の前で無防備になるという事実に、心と身体がまるで追いついていないのだ。
(どうしよう……震えが、止まらない)
みっともないと思われたらどうしよう。
そんな羞恥が込み上げてきて、佳奈は思わずシーツを握りしめた。
すると、ボタンにかかっていた健介の手が、ぴたりと止まった。
「……急がなくていい」
「え……」
「今夜、何もしなくたっていいんだ。俺はただ、君が落ち着くまでここにいる」
健介はそう言うと、佳奈の額に軽く唇を落とし、震える手を自分の手のひらでそっと包み込んだ。
大きくて、乾いていて、少しだけ熱い手。
その温度に触れているうちに、不思議と、指先の震えが少しずつ引いていくのが分かった。
恥ずかしさに身をすくませる佳奈を急かすことなく、健介は何度も言葉をかけて確かめながら、優しく抱きしめた。
「怖かったら、今からでもやめる」
「やめません。……私の意思です。沢村さんに、そばにいてほしいんです」
佳奈はそこで一度言葉を切り、健介のシャツをきゅっと握った。
「……私、誰かに寄りかかったことが、一度もないんです」
「……」
「ずっと、しっかりしなきゃって思って生きてきました。誰かに何かを頼むのが、怖くて。……でも、沢村さんの前でだけは、ちゃんと弱い私でいられるんです」
その言葉に、健介は息を呑んだ。
仕事の場で幾度となく見てきた、彼女の必死な背伸び。
その裏側にあったものの正体が、ようやく分かった気がした。
「……そうか」
健介は静かに頷き、佳奈の髪を撫でた。
「じゃあ今夜は、全部俺に預けなさい」
佳奈は小さく頷き、ゆっくりと目を閉じた。
次の瞬間、健介の腕が佳奈をいっそう強く包み込んだ。
最初は、緊張とわずかな痛みで息が詰まった。
けれど健介は動きを止め、佳奈の震えが収まるまで、額や頬に優しい口づけを落とし続けた。
「大丈夫。急がないから」
その低い声と温かな体温に包まれているうちに、佳奈の恐怖は少しずつほどけていった。
仕事で窮地に陥った時と同じだった。
この人は、自分が本当に苦しい時には必ず立ち止まり、置き去りにせず待っていてくれる。
「沢村さん……」
「佳奈」
初めて下の名前で呼ばれた瞬間、佳奈の目から涙がこぼれた。
痛みのためではない。
ずっと求めていた人に、ありのままの自分を受け止めてもらえた喜びが、胸いっぱいに広がったからだ。
佳奈は健介の背中に腕を回し、自分から唇を重ねた。
その夜、二人は何度も互いを呼びながら、ついに後戻りのできない一線を越えた。
◇
気がつけば、窓の外がうっすらと明るくなっていた。
長い夜の余韻の中、佳奈は健介の胸に抱きしめられながら、静かに息を整えていた。
「……ごめん。初めてなのに、少し無理をさせたかもしれない」
健介が、佳奈の汗ばんだ前髪を優しく撫でながら囁いた。
「ううん……。少し痛かったけど、後悔していません。生きてきた中で一番、幸せでした」
佳奈は健介の胸に頬を寄せたまま、小さく笑った。
「……沢村さんって、こういう時も丁寧なんですね」
「こういう時も、って言い方はやめなさい」
「だって、本当ですもん。資料を作る時と一緒でした。ちゃんと一つずつ確かめて、絶対に置いていかない」
健介は言葉に詰まったように黙り込み、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「……敵わないな、君には」
その低く掠れた声に、佳奈は堪えきれずに小さな笑い声を漏らした。
少しの沈黙のあと、佳奈はぽつりと呟いた。
「あの、一つだけ、お願いしてもいいですか」
「なんだい」
「今日だけでいいので。……朝まで、こうしていてください」
健介は何も答えなかった。
ただ、佳奈の身体に回した腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
それが答えだった。
佳奈がとろんとした瞳で微笑むと、健介は愛おしそうに彼女の額へキスをした。
「……もう寝なさい。今日は土曜日だから、ゆっくり休んでいいんだよ」
「はい……。沢村さん、温かい……」
深い疲労感と、それ以上の満足感。
佳奈は健介の力強い腕と温もりに包まれながら、泥のような、けれど穏やかな眠りへと落ちていった。
(私はもう……絶対に、この人から離れられない……)
薄れゆく意識の中で、佳奈は自分の心が、完全に一人の『冴えないおじさん』の虜になってしまったことを、確かな喜びと共に実感していた。




