第13話:優しい朝
まぶたの裏で、白い光が揺れていた。
チュン、チュンと遠くで聞こえる鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む眩しい朝陽に、星野佳奈はゆっくりと目を覚ました。
「んっ……」
身じろぎをした瞬間、腰に鈍い痛みが走り、同時に昨夜の温かな余韻が全身へと広がっていった。
(あ……っ。私……)
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったが、見慣れた自室の天井と、肌に直接触れるシーツの感触で、昨夜の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
深夜の玄関での決死の告白。
熱いキス。
そして、ベッドの上で知った、一人の男性としての健介の底知れない熱量。
あの『冴えないおじさん』が、実は凄まじい情熱を秘めた一人の男だったこと。
その彼に優しく抱きしめられ、心の奥まで満たされた事実が、佳奈の脳内を甘く支配していく。
佳奈はシーツを胸元まで引き上げながら、そっと隣を見た。
しかし、そこにあるはずの温もりはなかった。
「沢村、さん……?」
ベッドの脇のサイドテーブルに置かれた時計を見ると、時刻はすでに午前10時を回っていた。
今日は土曜日とはいえ、すっかり寝坊してしまっている。
彼が帰ってしまったのだろうか。
一夜限りの間違いとして、私を置いて。
そんな不安がよぎり、佳奈の胸がキュッと締め付けられた、その時だった。
トントントントン。
リビングの奥にあるキッチンから、信じられないほどリズミカルな包丁の音が聞こえてきた。
さらに、カツオ出汁のホッとするような香りと、何かを香ばしく焼く匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
「……えっ?」
佳奈は慌ててベッドから起き上がった。
昨夜、彼に脱がされたままの自分の身体を見てポッと頬を染めると、急いで下着だけを身につけ、その上から大きめのパーカーを羽織った。
抜き足差し足で寝室のドアを開け、そっとリビングを覗き込む。
そこには――ワイシャツの袖をまくり上げ、エプロンすらつけずにフライパンを鮮やかに煽る、沢村健介の姿があった。
「さ、沢村さん……?」
佳奈が信じられないものを見るように声をかけると、健介はコンロの火を止め、振り返って優しく微笑んだ。
「ああ、星野さん。おはよう。よく眠れたかな?」
「おはよう、ございます……。あの、それ……」
「勝手にキッチン借りちゃってごめんね。冷蔵庫にあるもので、簡単な朝飯を作らせてもらったんだ。もう少しで出来るから、顔を洗って待ってておいで」
「あ、は、はいっ!」
佳奈は慌てて洗面所へと駆け込んだ。
鏡に映る自分の顔は、昨夜の熱情のせいで少し火照っており、首筋にはうっすらと赤いキスマークが残っていた。
それを指でなぞると、佳奈の鼓動は再び早くなった。
(沢村さん、お料理もできるの……? しかも、あんなプロみたいな手つきで……!)
仕事の圧倒的な処理能力。
クライアントの心理を完全に掌握する交渉術。
そして、不安も緊張も受け止める大人の包容力。
その上、家事までそつなくこなしてしまう。
一体この人に、できないことなどあるのだろうか。
『冴えないおじさん』というあの着ぐるみの中には、どれほどの「本性」が隠されているのだろう。
佳奈が顔を洗い、身なりを整えてリビングに戻ると、小さなダイニングテーブルには、旅館の朝食のような和定食が並べられていた。
ふっくらと焼かれた鮭、出汁巻き卵、ほうれん草のお浸し、そしてネギと豆腐の味噌汁。
「口に合うか分からないけど、冷めないうちにどうぞ」
向かいの席に座った健介に促され、佳奈は「いただきます」と手を合わせた。
出汁巻き卵を一口かじる。
「……っ! 美味しいっ! すっごく美味しいです!」
「よかった。大したものじゃなくて申し訳ないけどね」
佳奈は目を輝かせながら、次々とおかずを口に運んだ。
定食屋のプロが出すような、繊細で、隙のない味付けだった。
「沢村さんって、本当に何でもできちゃうんですね。お仕事のデータを作ってくれた時も魔法みたいでしたけど……お料理までこんなに上手だなんて」
佳奈が心底感心したように言うと、健介は苦笑しながら味噌汁を啜った。
「一人になってみると、自炊くらいできないと不便だからね。動画を見て真似してるだけだよ」
「……ううん、そんなことないです。沢村さんは、本当にすごいです。仕事も、お料理も。……それに、昨日の夜のことも」
佳奈が頬を真っ赤に染めながら上目遣いで見つめると、健介は思わず咽せそうになり、慌てて口元を押さえた。
普段の余裕のある彼が、珍しく動揺を見せている。
「ほ、星野さん……ご飯中にそういうことは……」
「だって、本当のことです。最初はすごく緊張したけど……沢村さんが優しくしてくれて、本当に幸せでした。私、沢村さんのこと、もっともっと好きになっちゃいました」
ストレートすぎる佳奈の言葉に、健介は照れくさそうに頭を掻いた。
そして、少しだけ真面目な顔になり、ポツリとこぼした。
「……あれは、嘘じゃなかったんだね」
「え?」
「玄関で君が言った、『初めてなんです』っていう言葉。昨夜の君の緊張も震えも、全部本物だった」
その言葉に、佳奈の顔がボンッと音を立てるように熱くなった。
自分の不安も覚悟も、健介がきちんと受け止めてくれていたことが、恥ずかしくも嬉しかった。
「……はい。本当に、全部初めてでした」
佳奈が俯きながら答えると、健介は優しく目を細めた。
◇
食後。
佳奈が丁寧に淹れたコーヒーを、二人で向かい合って飲む。
満ち足りた静かな時間が流れる中、佳奈はカップを両手で包み込み、少しだけ俯いた。
「……沢村さん。昨日は、ごめんなさい」
「何がだい?」
「私、嘘ばっかりつきました。神崎部長たちが来るって嘘をついて高いレストランに呼び出して。酔い潰れたふりをして、沢村さんを無理やり部屋まで引っ張ってきて……。全部、私が仕組んだことです。本当に、ごめんなさい」
佳奈が正直に打ち明けると、健介は静かに首を横に振った。
「謝る必要はないよ。君の不器用な嘘に気づきながら止められず、あまつさえ理性を失って一線を越えてしまったのは、大人である俺の責任だ。……星野さんこそ、後悔していないかい? 俺みたいな歳の離れた『冴えないおじさん』に初めてを奪われてしまって」
「後悔なんて、絶対にしません!」
佳奈は顔を上げ、強い意志の宿った瞳で健介を真っ直ぐに見つめた。
「私、沢村さんに抱かれて、本当に幸せでした。……でも」
佳奈は言葉を区切り、キュッと唇を噛み締めた。
彼女がこれから口にするのは、昨夜、健介に抱かれながらずっと心に決めていた『覚悟』だった。
「……でも、沢村さんには、奥様がいらっしゃいますよね。だから、私……これ以上、沢村さんを困らせるようなことは言いません」
「星野さん……?」
「私と付き合ってほしいとか、奥様と別れてほしいとか、そんな無理なことは絶対に言いません。会社では今まで通り、『冴えないおじさん』と『ポンコツ新人』のままでいいです。……ただ、私の気持ちを知って、私を避けるのだけは嫌です。嫌われる方が、ずっと辛いから……っ」
佳奈の目から、涙がこぼれ落ちた。
大好きな人に抱かれ、心と身体が完全に結ばれた。
けれど、彼は既婚者だ。
自分が正妻になることはできない。
だからこそ、佳奈は「重い女」になって彼に捨てられることだけは絶対に避けたかった。
仕事のパートナーとして、そして日陰の存在としてでもいいから、少しでも長く彼の手の届く場所にいたかったのだ。
その、あまりにも自分を犠牲にした佳奈の言葉に、健介は深く息を吐き出し、痛ましそうに眉を寄せた。
「……君は、本当に真っ直ぐで、いい子だね」
「いい子なんかじゃないです。私、わがままだから。……だから一つだけ、聞かせてください」
佳奈は涙を拭い、健介の瞳をじっと見つめ返した。
「どうして、奥様と別居しているんですか? 沢村さんみたいに完璧で、優しくて、頼りがいのある旦那様……私からしたら、絶対に手放したくないくらい、理想の人なのに」
佳奈の純粋な疑問。
健介は少しの間沈黙していたが、やがて諦めたように小さく笑い、コーヒーカップをソーサーに置いた。
「……もう、こんな仲になってしまったんだ。君には、話しておかないといけないね」
健介は静かな声で、自らの過去を語り始めた。
「妻の麻由美は、非常に上昇志向の強い女性でね。……彼女はバツイチで、前の夫との間に娘がいた」
「え……」
思わず、佳奈の手からカップが滑りかけた。
以前あの喫茶店で聞いた時、健介はただ「娘」としか言わなかった。
その一言の中に、どれだけのものが省かれていたのだろう。
「……血は、繋がっていないんですか」
「ああ。あの時は、わざわざ話すようなことでもないと思ってね」
健介は少しばつが悪そうに頭を掻き、それから静かに続けた。
「……俺と再婚した時、彼女は俺が社内で絶対に役員まで出世すると固く信じていたんだよ。……いや、俺自身も若い頃は、そのつもりで最前線で戦っていたんだけどね」
健介の瞳の奥に、かつての鋭いビジネスマンとしての凄みが一瞬だけ過った。
しかし、それはすぐにいつもの穏やかな光へと戻った。
「だけど、俺は社内のドロドロした派閥争いに加わるのを拒んだんだ。その結果、上の連中から煙たがられて出世が遅れ、最終的には営業第三課へ左遷されることになった。……俺自身は別にそれでも構わなかったんだけど、妻はひどくがっかりしていたよ。夫の出世の道が絶たれたと悟った彼女は、俺への興味を失い、自らのキャリアを優先して大阪へと単身赴任していった。それが、一つ目の理由だ」
「そんな……。沢村さんは、あんなに凄い力を持っているのに。奥様は、沢村さんの本当の凄さを分かってなかっただけじゃないですか……っ!」
佳奈が憤るように身を乗り出すと、健介は「まあね」と自嘲気味に笑った。
「そして、もう一つ。……こっちの方が、別居の決定的な理由かもしれない」
「決定的な、理由……?」
健介は少し気まずそうに視線を泳がせ、やがて佳奈の顔を真っ直ぐに見据えた。
「夜の生活の、不一致だ」
「え……」
「君も、昨日の夜……少しは感じただろう?」
健介のその言葉に、佳奈の身体がビクッと大きく跳ねた。
脳裏に蘇るのは、長い夜を通して向けられた、あの隠しきれない熱だった。
「はい……。でも、怖い時は待ってくれて、ずっと優しくしてくれました」
佳奈が頬を赤らめて答えると、健介は困ったように視線を伏せた。
「俺は昔から、夫婦の時間に求めるものが妻よりずっと強かった。頻度も、過ごし方も、最後まで折り合わなかったんだ」
健介は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「互いに歩み寄ろうとはした。けれど、妻にとっては次第に重荷になっていった。最後の方は寝室を共にすることさえ避けるようになってね。どちらが悪いという話ではない。ただ、夫婦として埋められない溝になった」
健介の告白に、佳奈は胸の奥が痛むのを感じた。
仕事では何もかも見通すような彼でさえ、長い結婚生活の中で解決できなかったことがある。
それは佳奈が簡単に批判したり、代わりになれると言い切ったりしてよい問題ではなかった。
「……だから、星野さん」
健介が立ち上がり、佳奈の隣にやってきて、彼女の頭を優しく撫でた。
「君みたいに若くて未来のある子が、俺みたいな中年男に縛られちゃいけない。……昨日のことは、俺の生涯の宝物にさせてもらう。本当に、ありがとう」
それは、大人の男としての、優しくて、隙のない『引き際の言葉』だった。
佳奈は何も言えず、ただ泣きそうな顔で、健介の大きな手のひらの温もりを感じていた。
◇
昼前。
健介は佳奈のマンションを出て、都内の自宅へと帰ってきた。
「……ただいま」
誰もいない、静まり返ったリビング。
靴を脱ぎ、ジャケットをソファに放り投げる。
健介は洗面台の鏡の前に立ち、自分の顔をじっと見つめた。
少し無精髭の伸びた、『冴えないおじさん』の顔。
しかし、その奥にある瞳には、深い後悔と罪悪感が渦巻いていた。
(……最低だな、俺は)
いくら別居中で、夫婦関係が破綻しているとはいえ、自分は妻帯者だ。
23歳も年下の、後輩の女の子の人生の『初めて』を奪ってしまった。
彼女の切実な想いと涙に絆され、大人の男としての理性を完全に失い、一人の男として彼女を求めてしまったのだ。
『私と付き合ってほしいとか、奥様と別れてほしいとか、そんな無理なことは絶対に言いません』
佳奈の、あの健気で自己犠牲的な言葉が、健介の胸を深く抉る。
あんなにも真っ直ぐに自分を愛してくれる彼女を、日陰の女として縛り付ける権利など、自分にはない。
これ以上、彼女の人生を狂わせてはいけない。
健介は冷たい水でバシャバシャと顔を洗い、鏡の中の自分に向かって、静かに言い聞かせた。
(……浮気をしてしまったことは、もう取り返しがつかない。彼女を抱いたこと自体に後悔はないが、妻を裏切った事実は消えない)
健介はタオルで顔を拭い、深く息を吐き出した。
(……もう二度と、あの子には触れない)
それが、今の自分に出せる唯一の答えだった。




