第14話:エースの焦燥
翌週月曜日。
星野佳奈が、あの難攻不落と言われた東都リテールグループと本契約を結んだ。
年間10億円規模の超大型案件。
先週から本社ビル中を騒がせていたその数字が、この日、正式な契約として確定したのだ。
だが、当の営業第三課のオフィスは、相変わらず冷ややかで張り詰めた空気に包まれていた。
「ちょっと星野さん。この見積もり、C列の計算式がまたズレてるわよ。東都の件で浮かれるのはいいけど、足元の基本がおろそかになってるんじゃないの?」
中堅の中川留美が、プリントアウトされた資料を佳奈のデスクにバンッと叩きつけた。
「ひゃあっ! す、すみません、先輩! すぐに直しますっ」
佳奈はオロオロと身を縮ませ、慌ててキーボードを叩き始めた。
それを見ていた『特攻隊長』の橘咲も、呆れたようにため息をつく。
「ほんと、神崎部長も何を間違えたのかしらね。たまたま持って行った企画書のタイミングが良かっただけで、普段はこんなポンコツなのに」
「ま、東都の運用実務は私たちがフォローしてあげるしかないわね。大きなトラブル起こされる前に」
先輩たちは嘲笑を交えながら、佳奈の「まぐれ」を容赦なくこき下ろしていた。
もし以前の佳奈であれば、こんな風に理不尽なダメ出しをされれば、すぐに目が潤み、自己嫌悪で押し潰されていたはずだ。
しかし――今の佳奈の胸の奥は、驚くほど凪いでいた。
「すみませんっ」と平謝りしながら、佳奈は隣の席に座る健介へと、一瞬だけ視線を送った。
健介は相変わらず少し猫背で、安いボールペンをカチカチと鳴らしながら、いかにも暇そうに宙を見つめている。
だが、佳奈と視線が交差したほんの一瞬だけ、彼は「それでいい」と言うように、優しく口角を上げたのだ。
(ふふっ……)
佳奈はモニターに隠れるようにして、誰にも見えないように小さく微笑んだ。
実のところ、先ほどの見積もりの計算ミスは、佳奈が『わざと』仕込んだものだった。
今の佳奈には、健介がこっそり共有してくれた魔法のフォーマットとマクロがある。
本気を出せば、あんな初歩的なミスなどするはずがない。
しかし、健介は佳奈にこうアドバイスしていたのだ。
『星野さん。東都で大金星を上げたからといって、急にできる営業として振る舞っちゃダメだ。女の社会で、昨日まで下だった人間がいきなり自分たちを追い抜いていくのを、彼女たちは絶対に許さないからね』
『だから、君は今まで通り、少し抜けていて、先輩たちに怒られるポンコツ新人のままでいなさい。敵を作らず、彼女たちのプライドを満たしてあげるんだ。……本当の実力は、いざという時まで隠しておけばいい』
それはまさに、健介自身がこの会社で実践している、爪を隠すという生存戦略そのものだった。
佳奈は健介のその教えを忠実に守り、オフィスでは完璧に『ダメな新人』を演じ切っていた。
周囲から見れば、相変わらず『冴えないおじさん』と、まぐれで契約を取った『ポンコツ新人』。
しかし、その実態は、この『花形部署』の誰よりも高い実力を隠し持ち、秘密のサインを交わし合う『最強の共犯者』なのだ。
(みんな、本当の私と沢村さんを知らない。……私たちだけが、繋がってる)
その強烈な優越感と、健介への絶対的な信頼が、佳奈の心に分厚い鎧を着せていた。
先輩たちからの冷たい言葉など、もはやそよ風のようにしか感じられなかった。
◇
そして、佳奈の心を満たしているのは、仕事における優越感だけではなかった。
深夜0時。
自室のベッドの上で、佳奈はパジャマ姿のままスマートフォンを握りしめ、画面を見つめていた。
『今日も一日お疲れ様、星野さん。中川さんに怒られていた時、少しだけニヤけてたよ。危なかったね(笑)』
LINEのトーク画面に、健介からのメッセージが届く。
それを見た瞬間、佳奈は「ふふっ」と声を出して笑い、ベッドの上で足をパタパタとさせた。
あの夜、健介と一線を越え、心も身体も完全に彼に支配されてしまった翌日。
佳奈は自ら頼み込んで、健介と個人的なLINEを交換したのだ。
『沢村さんこそ、佐々木先輩に舌打ちされた時、すごく嬉しそうでしたよ?(笑)』
『でも……私、本当はオフィスでもずっと沢村さんにくっついていたいです』
送信ボタンを押す指が、少しだけ震える。
佳奈は、健介が妻と別居中の既婚者であることを十分に理解している。
あの朝、『会社では今まで通りでいい』と自分から告げたのだ。
奥様と別れてほしいなどと、無理な要求をするつもりはない。
だからこそ。
『これ以上は絶対に望みません。オフィスではただのポンコツ新人のままでいます。……だから、せめてこのLINEの中だけは、沢村さんの奥さんみたいに甘えさせてください』
少し重いかもしれない。
嫌われてしまうかもしれない。
そんな不安を抱えながら送ったメッセージに、既読がつく。
数秒後。
『分かってるよ。佳奈は俺の、大事な自慢の後輩だからね。……今夜は少し冷えるから、お腹を出して寝ないように。おやすみ』
「……っ」
会社では『星野さん』と呼ぶ彼が、この深夜の密室のLINEの中だけで、あの夜と同じように『佳奈』と名前で呼んでくれる。
そのたった二文字の破壊力に、佳奈の胸の奥がきゅっと締めつけられ、甘い熱が広がっていった。
(沢村さん……好き、大好き……っ)
佳奈はスマートフォンを胸に抱きしめ、幸せに満ちたため息をついた。
日陰の女でもいい。
誰にも言えない関係でもいい。
彼とこうして繋がっていられるなら、どんな過酷な会社生活でも絶対に乗り越えられる。
佳奈は確信していた。
◇
その日の昼間。
そんな佳奈の余裕に満ちた姿を、第三課のオフィスで最も苛立たしく、そして忌々しい思いで見つめている人間がいた。
「……っ!」
ターンッ! と、乱暴にエンターキーを叩く音が響く。
健介のデスクの真正面では、若手エースの佐々木澪が、モニターを睨みつけながら、ギリッと奥歯を噛み締めていた。
25歳。
入社以来、その端正なルックスと愛嬌、そして確かな営業スキルで、数々の新規案件を獲得してきた第三課の顔。
後輩の佳奈とは違い、澪は常に結果を出し続け、周囲からの期待と信頼を一身に背負ってきた自負がある。
(なんで……なんであんなポンコツが、東都リテールなんていう大口を取れたのよ……!)
澪は苛立ち紛れに、手元にあった資料の束を乱暴に揃えた。
佳奈のデスクからは、今日も「すみません、やり直します」という情けない声が聞こえてくる。
誰がどう見ても、実力は自分の方が圧倒的に上だ。
それなのに、他部署の人間はすれ違うたびに「第三課の星野さん、すごいね」と噂している。
その声が耳に入るたびに、澪のプライドはナイフで削り取られるように傷ついていた。
澪がこれほどまでに佳奈の成功に固執し、苛立っているのには、明確な理由があった。
――3ヶ月前。
『佐々木さん。そろそろあなたも、さらに上のレベルに挑戦する時期よ。この東都リテールグループ……長年うちが本契約を取れていない難攻不落だけど、あなたにメイン担当を任せたいの』
課長の霧島玲奈から、分厚い顧客リストを手渡された時のことだ。
澪は一瞬で、その案件が「自分のキャリアにとって致命的なリスク」になることを悟った。
東都の神崎部長は、並の営業マンでは全く歯が立たない超合理主義者だ。
もし自分が担当して失敗すれば、これまで築き上げてきた『連戦連勝の若手エース』という完璧な経歴に、初めての、そして巨大な『汚点』がつくことになる。
失敗したくない。
自分の価値を下げたくない。
その防衛本能から、澪は体よく逃げたのだ。
『課長……ご期待にお応えしたいのは山々なんですが。いま私が抱えているクライアントの対応で手一杯でして。……それに、ああいう泥臭い案件は、新人の星野さんに経験として積ませるのが、彼女の勉強のためにも一番いいんじゃないでしょうか』
もっともらしい理由をつけて、自分が絶対に無理だと思ったハズレくじを、一番下っ端の佳奈に押し付けた。
澪は確信していた。
どうせ佳奈には無理だ。
彼女が神崎部長に怒鳴られて泣きながら帰ってくるのを見て、「やっぱり新人に東都は早かったですね」と慰めてやればいい。
それなのに。
(私が逃げた案件を……私が見下していた星野が、成功させた……!?)
絶対にあり得ない事態が起きた。
まぐれだ。
タイミングが良かっただけだ。
頭ではそう分かっていても、結果という『数字』は残酷だ。
佳奈が獲得した年間10億円という数字は、澪がこの1年で積み上げてきた契約をすべて足しても届かないほどのものだった。
(このままじゃ……私の居場所がなくなる)
玲奈からの評価が下がるかもしれない。
同僚たちから「佐々木さんより、星野さんの方が優秀なんじゃない?」と思われるかもしれない。
そんなことは絶対に許されない。
私はエースだ。
特別で、有能で、誰からも羨望の眼差しを向けられる存在でなければならない。
澪の心の中に、どす黒い『焦り』が急速に広がっていく。
(星野なんかに負けない。私の方が絶対に優秀だってことを、数字で証明してやる……!)
澪は血走った目でモニターを見つめ、新規の大口クライアントのリストをスクロールし始めた。
「佐々木さん、少し休憩しない? コーヒー淹れたんだけど」
隣の席から留美が気遣うように声をかけてきたが、澪は画面から目を離さずに冷たく言い放った。
「結構です。次のアポの準備があるので」
「……そう。無理しないでね」
留美は少し引いたように自席へ戻っていった。
今の澪には、周囲の気遣いすら「自分への同情」のように感じられ、腹立たしかった。
カリカリ、カリカリ。
マウスのホイールを回す音が、静かなオフィスに響く。
その時だった。
「いやぁ、最近PCの画面ばっかり見てると、目がチカチカしてきちゃってねぇ。おじさんにはキツいよ」
向かいの席から、気の抜けたような声が聞こえてきた。
顔を上げると、沢村健介が両手を上に伸ばして、のんきに伸びをしていた。
その無能で危機感のない顔を見た瞬間、澪の中で抑え込んでいたイライラが頂点に達した。
「……ちょっと、沢村さん」
「ん? なにかな、佐々木さん」
「目がチカチカするなら、少しは手を動かして仕事の役に立ったらどうですか? 今、私がどれだけ重要な案件のリストアップをしてるか分かってます? あなたみたいに、一日中座って息してるだけで給料がもらえる『窓際族』とは違うんですよ」
普段なら、空気を悪くしない程度に嫌味を言うくらいで済ませていた。
しかし、精神的な余裕を完全に失っていた澪は、自分でも驚くほど冷酷で、直接的なトゲのある言葉を健介にぶつけてしまった。
オフィスが一瞬、シンと静まり返る。
両隣の留美と咲も、澪のあまりの剣幕に驚いてこちらを見ていた。
(あっ……言い過ぎた……)
澪自身もしまったと思った。
いくらお荷物とはいえ、相手は20歳以上も年上の社員だ。
ヒステリックに八つ当たりをしている自分の姿は、決してスマートではない。
だが、健介は怒ることも、不機嫌になることもなかった。
「……ははっ、ごめんごめん。そうだね、佐々木さんの言う通りだ。僕も少しは働かないとね」
健介は困ったように眉を下げて笑い、ペコペコと頭を下げたのだ。
そのあまりにも情けなく、反撃の意志すら見せない従順な態度が、澪の神経をさらに逆撫でした。
(なんなのよ、このおじさん……っ。本当に使えない)
「……もういいです。話しかけないでください」
澪は吐き捨てるように言うと、再びモニターへと顔を向けた。




