第15話:エースの孤独
日曜日。
23時。
都内のワンルームマンションで、佐々木澪はメイクも落とさず、ベッドの上に力なく突っ伏していた。
部屋の明かりはつけていない。
静寂の中、手元のスマートフォンだけが冷たい光を放っている。
画面に表示されているのは、恋人である翔太とのLINEのトーク画面だ。
『じゃあ、もういいよ。仕事と俺、どっちが大事かとかそういう次元の話じゃない。約束を簡単に破られて、お前のプライドの当て馬にされる俺の身にもなってくれ。しばらく距離を置こう』
数時間前に送られてきたそのメッセージに、澪は何度も返信を打ちかけては消し、結局、一文字も送れずにいた。
「……バカみたい」
澪は自嘲気味に呟き、スマートフォンをベッドの隅へと放り投げた。
目頭が熱くなり、視界が滲む。
だが、意地でも涙だけは流すまいと、澪は強く唇を噛み締めた。
翔太とは、大学時代からの付き合いだ。
同い年で、中堅のメーカーで働く彼は、営業の最前線で戦い続ける澪をずっと応援し、支えてくれていた。
本当なら、二人で箱根の温泉旅館へ旅行に行くはずだった。
澪が2ヶ月前、念願だった大手クライアントとの新規契約を勝ち取ったお祝いに、彼がその直後から有給を調整し、澪の名前で人気の宿を押さえてくれていたのだ。
しかし――2週間前、後輩の星野佳奈が、澪の契約を遥かに凌ぐ東都リテールグループとの年間10億円規模という超大型契約を叩き出した。
その圧倒的な数字を突きつけられた瞬間、澪の中で、何かが完全に壊れてしまった。
『ごめん……箱根の旅行、やっぱり行けなくなった』
数日前。
澪はカフェで向かい合って座る翔太に、頭を下げてそう告げた。
『えっ? どうして? プロジェクトは一段落したって言ってたじゃないか』
『後輩が……私よりずっと大きな案件を取ったの。このままじゃ、私の居場所がなくなる。エースとしての私の評価が、全部あの子にひっくり返されちゃう。だから、週末も新規開拓のリストアップと企画書作りに使いたいの』
自分でも、めちゃくちゃな言い分だと分かっていた。
後輩が手柄を立てたからといって、澪の評価が下がるわけではない。
翔太との旅行をドタキャンしてまで仕事に固執するのは、ただの「澪のプライド」の問題だ。
翔太は呆れたように大きなため息をついた。
『澪……お前、最近ちょっとおかしいよ。仕事が大事なのは分かるけど、後輩に負けたくないからって、俺たちの大事な約束を反故にするのか?』
『お願い、今回だけだから! 次の案件さえ取れれば、絶対に――』
『そう言って、今年に入って何回デートをキャンセルした? お前の頭の中には、他人からの評価と数字しかないのかよ』
翔太の冷たい視線が、澪の胸を深く抉った。
違う、分かってほしい。
私がどれだけのプレッシャーの中で、第三課のエースという肩書きを守り続けているのか。
一度でも立ち止まれば、一度でも弱みを見せれば、すぐに周囲から見下される。
そんな恐怖と常に戦っているのだと。
しかし、その想いを言葉にすることはできず、二人は最悪の雰囲気のまま別れた。
そして今夜、『しばらく距離を置こう』という、二人の関係を決定的に揺るがすメッセージが届いたのだ。
(私が……私が悪いの……?)
澪はベッドのシーツをギュッと握りしめた。
違う。
私は頑張っている。
誰よりも会社に貢献し、誰よりも数字を上げ、誰よりもプライドを持って仕事に向き合っている。
それなのに、どうしてこんなにも孤独で、報われないのだろう。
(星野のせいだ……あいつが、変なまぐれ当たりなんて出すから……っ)
行き場のない怒りと焦燥感が、澪の心をどす黒く染め上げていく。
恋人との関係を失いかけている悲しみよりも、仕事で誰かに負けるかもしれないという恐怖の方が、今の澪にとっては遥かに巨大だった。
「……負けない。絶対に、私の方が優秀なんだから」
澪はベッドから跳ね起きると、充血した目でノートパソコンを開き、深夜の暗い部屋の中で再び顧客リストと睨み合い始めた。
◇
翌日。
月曜日の朝。
営業第三課のオフィスは、週の始まりということもあり、慌ただしい空気に包まれていた。
「星野さん、東都リテールの第1フェーズの進捗、どうなってる?」
課長の霧島玲奈が、島の奥から佳奈に声をかける。
「はいっ! 昨日の夜までに、各店舗の在庫システムの連動テストをクリアしました。スケジュール通り、今週末から新しい物流ルートが稼働します!」
佳奈が元気よく答えると、玲奈は「見事ね」と短く褒めた。
「相変わらず、時々書類のフォーマットを間違えたり、計算式を壊したりするポンコツっぷりはあるけど。肝心の現場のコントロールとクライアントとの折衝は、完璧じゃない。よくやってるわ」
「えへへ、ありがとうございます!」
佳奈は照れくさそうに笑い、周囲の先輩たちも「星野さんも成長したわね」と、かつてのような冷ややかな視線ではなく、一定の評価を含んだ眼差しを向けている。
その和やかなやり取りを、澪は自席でギリッと奥歯を噛み締めながら聞いていた。
澪の目には、あの子が「少し抜けているが、泥臭く結果を出す一生懸命な後輩」という顔を、都合よく被っているようにしか見えなかった。
(計算式を壊すような奴が、現場のコントロールなんてできるわけないじゃない……。誰かが裏で手引きしてるに決まってるのに、どうして皆、あんな女を認めるのよ)
イライラと爪の先で机を叩く音が、澪の手元でコツ、コツと響く。
睡眠不足と、プライベートで関係が壊れかけているストレス。
そして佳奈への強烈な嫉妬が、澪の集中力を著しく削いでいた。
「……佐々木さん」
不意に、隣の席から中堅の中川留美が声をかけてきた。
「ん? なんですか、中川先輩」
「あなたが先週作った、大和ダイニング向けの提案資料なんだけど。……これ、去年の原価データのままになってるわよ。利益率の計算、全部ズレてるじゃない」
留美がプリントアウトした資料を、澪のデスクの上に置いた。
そこには、赤いペンで無数の修正指示が書き込まれていた。
「え……っ」
澪は血の気を失い、資料を手に取った。
確かに、参照しているデータベースが古いままだ。
こんな初歩的なミス、入社1年目の新人でもやらない。
「す、すみません……! 私としたことが、うっかりしていて……すぐに修正します!」
「別にいいけど。あなたらしくないわね。最近、少し焦ってない? クライアントへのレスポンスも少し遅れ気味だし、あんまり一人で抱え込まない方がいいわよ」
留美は淡々と指摘し、自分の作業に戻っていった。
その言葉が、澪のプライドを粉々に打ち砕いた。
「あなたらしくない」。つまり、エースとしての完璧な澪が揺らいでいると、周囲に悟られ始めているのだ。
「……大丈夫です。一人で抱え込んでなんか、いませんから」
澪は意地を張ってそう吐き捨てると、キーボードを叩く手元に力を込めた。
ミスを取り返さなければ。
エースとしての自分を、一刻も早く証明しなければ。
その強迫観念が、澪の視野をどんどん狭くしていく。
(もっと、もっと大きな案件を。星野の東都リテールを超えるような、誰もがひれ伏すような圧倒的な実績を……っ!)
澪は血走った目で、社内の『未開拓リスト』をスクロールした。
そこには、過去に先輩たちが何度アプローチしても門前払いを食らい、あるいはトラブルになって撤退した、いわゆる『ハイリスク・ハイリターン』な地雷案件がいくつも眠っている。
普段の冷静な澪であれば、絶対に手を出さないような危険なリスト。
しかし、完全に余裕を失っていた今の澪の目には、それが「一発逆転の魔法のチケット」にしか見えなかった。
「……ここだわ」
澪のマウスのカーソルが、一つの企業名の上で止まった。
帝王フーズ。
全国に500店舗を展開する急成長中の飲食チェーンだが、業界内での黒い噂が絶えず、トップである社長のワンマンぶりと、下請けに対する法外な要求で悪名高い企業だった。
過去に第三課からもアプローチをかけたが、担当者が精神を病んで休職に追い込まれたという曰く付きの案件だ。
(リスクはある。でも、ここなら……もし契約を取れれば、東都リテール以上の利益を生み出せる……!)
エースとしての栄光を取り戻す。
後輩に負けたという屈辱を晴らす。
その執念だけで、澪は震える指で帝王フーズの連絡先を控え、自分のスケジュール帳へと書き込んだ。
「佐々木さん、少し休憩したら? 顔色、すごく悪いよ」
ふと、向かいの席から気の抜けたような声が聞こえた。
顔を上げると、健介が心配そうに眉を下げて、澪を見つめていた。
その『冴えないおじさん』の同情を引くような視線が、澪の逆撫でされた神経に火をつけた。
「……あなたには関係ありません」
澪は視線も上げずに、それだけを短く切り捨てた。
先週、思わず『窓際族』と口走ってしまった時のような熱は、もうどこにも残っていない。
苛立つ気力さえ削り取られ、ただ、視界に入るものすべてが煩わしかった。
こんなおじさんに、私の何が分かるというのか。
恋人との関係まで壊れかけ、後輩に追い抜かれ、誰にも頼れずに一人でギリギリの綱渡りをしている私の孤独なんて、一日中座っているだけのあなたに理解できるはずがない。
「……こんなに頑張ってるのに。誰も、私のことなんて分かってくれない……」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、澪はノートパソコンの画面に没頭した。
自分が今、自らの手で「取り返しのつかない破滅の扉」を開こうとしていることにも気づかずに。




