第16話:致命的なミス
火曜日の14時。
都内のビジネス街にそびえる、重厚な自社ビル。
その応接室で、佐々木澪は胃の奥がキリキリと締め付けられるような緊張感と戦っていた。
「……で? 御社はうちと組んで、何をしたいわけ?」
本革のソファーにふんぞり返り、品のない笑みを浮かべているのは、急成長中の飲食チェーン・帝王フーズの購買部長である黒田だった。
澪は今日、課長の霧島玲奈には「既存クライアントのフォローアップに行ってきます」と嘘をつき、単身でこの帝王フーズ本社へと乗り込んでいた。
本来であれば、これほどの規模の新規開拓には、課長の決裁と綿密な事前調査が不可欠だ。
しかし、後輩の星野佳奈に後れを取ったという焦りと、彼氏との関係が壊れかけている不安が、澪から正常な判断力をすっかり奪っていた。
誰の手も借りず、自分一人だけの力で超大型契約を取る。
その実績だけが、今の澪が縋れる唯一のアイデンティティだったのだ。
「はい。御社が現在進められている全国展開のプロモーションにおいて、弊社の飲料製品を全店舗のドリンクバーおよびセットメニューに標準導入していただきたく――」
「あー、わかったわかった。御社のパンフレットはもう見飽きてるんだよ」
黒田は澪が徹夜で仕上げた提案書をパラパラと捲り、机の上に放り投げた。
「佐々木さん、だっけ? 単刀直入に言うよ。うちが御社に乗り換えてやってもいいけど、条件がある」
「条件、でしょうか」
「現在、うちが他社から仕入れている原価から、一律で30%カットして納入すること。それと、全店舗のメニュー表と看板を刷新するための『初回導入協賛金』として、御社に5000万円を負担してもらう。……これなら、すぐにでも社長の決裁を仰いであげるよ」
「――っ」
澪は思わず息を呑んだ。
信じられないほどの無茶苦茶な条件だった。
原価の30%カットなど、自社の利益を極限まで削り落とす行為だ。
その上、5000万円もの協賛金を先出しするなど、あからさまに下請けをいじめ抜くための悪質な要求である。
過去に第三課の先輩たちがアプローチして撤退した理由が、痛いほどよく分かった。
普段の冷静な澪であれば、「持ち帰って検討いたします」と体よく躱し、二度と関わらないように処理する案件だ。
しかし――。
(30%カットしたとしても……帝王フーズの全国500店舗というパイを考えれば、売上規模は年間20億円を超える……!)
20億円。
佳奈が叩き出した、あの憎き東都リテールの10億円という数字を、ダブルスコアで叩き潰せる圧倒的な数字。
その魔の数字が、澪の脳内で甘く危険な囁きを繰り返した。
「……承知いたしました。社に持ち帰り、至急、数字のシミュレーションをさせていただきます」
「おっ、さすが若手エースだねぇ。期待してるよ」
黒田の下品な笑い声を背に受けながら、澪は足早に応接室を後にした。
◇
その日の夜。
営業第三課のオフィス。
時刻は22時を回り、フロアには澪の他に誰も残っていなかった。
静まり返ったオフィスで、澪の叩くキーボードの音だけが、焦燥感を煽るように不規則に響いている。
モニターに映し出されているのは、帝王フーズから突きつけられた条件を元にした、複雑な利益計算のExcelシートだ。
(どうにかして、利益を出さないと……。売上20億を作っても、うちが赤字になったら契約の決裁が下りない……)
睡眠不足で充血した目を擦りながら、澪は無数の関数とセルをいじり回していた。
物流コストの削減、パッケージの簡易化、アイドルタイムの配送による人件費の圧縮。
ありとあらゆる数値をパズルのように組み替え、どうにかして「5000万円の協賛金を払っても、最終的に黒字になる」という魔法のロジックを捻り出そうと必死だった。
『そう言って、今年に入って何回デートをキャンセルした? お前の頭の中には、他人からの評価と数字しかないのかよ』
ふと、数日前に『しばらく距離を置こう』と告げられた恋人・翔太の冷たい声が脳裏にフラッシュバックする。
「違う……。私は間違ってない……!」
澪はギリッと奥歯を噛み締め、マウスを強く握り直した。
恋人との関係まで失いかけ、後輩に追い抜かれ、周囲から「最近の佐々木さん、おかしいね」と囁かれている。
ここで結果を出さなければ、澪という人間の価値は完全にゼロになってしまうのだ。
そして――深夜1時。
「……できた」
澪の口から、乾いた声が漏れた。
モニターの右下。
最終的な『年間利益』のセルに、『+5%(約1億円)』という数字が弾き出されていたのだ。
「いける……! これなら、会社の利益基準もギリギリクリアできる! 売上20億で、ちゃんと黒字になる……っ!」
極度の疲労とプレッシャーから解放された澪は、歓喜でブルブルと震えながら、その完成したシミュレーションのデータを元に、帝王フーズ宛ての最終提案書を書き上げた。
そして、時刻も気にせずに、そのまま黒田のメールアドレス宛にファイルを送信した。
(勝った。これで星野にも、私を見下した連中にも、全員に勝てる……!)
澪はデスクに突っ伏し、二時間ほど泥のように眠った。
始発が動き始める頃、ようやく目を覚まし、一度自宅へ戻った。
◇
翌朝、10時。
自席でメールを確認していた澪のデスクで、固定電話が鳴った。
受話器を取ると、相手は帝王フーズの黒田だった。
「佐々木さん、送ってくれた資料見たよ! いやぁ、御社も大企業だけあって太っ腹だねぇ。こちらの条件を丸呑みした上で、しっかり御社の利益も出るロジックになってるとは恐れ入ったよ」
「あ、ありがとうございます……!」
「今朝の役員会議で、社長もその数字を見て大喜びでね。御社との契約、ウチとしては仮承諾ということで進めさせてもらうよ。あとはそっちの社内稟議を通してくれれば、すぐにでも本契約だ」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、すぐに社内で手続きを進めます!」
澪は弾んだ声で電話を切り、ギュッと両手でガッツポーズをした。
心臓がバクバクと早鐘のように鳴っている。
やった。
ついにやったのだ。
年間20億円の超大型契約。
佳奈のまぐれなど消し飛ぶほどの、正真正銘の実力による大金星だ。
(よし、すぐに課長に報告して、稟議書を――)
澪が席を立ち上がろうとした、その時だった。
「……佐々木さん。ちょっといいかしら」
不意に、ひんやりとした声が降ってきた。
顔を上げると、普段は自席から一歩も動かない『データ職人』の藤本雫が、プリントアウトした数枚の紙を手に、冷ややかな視線で澪を見下ろしていた。
「な、なんですか? 藤本先輩。私、いま課長に大事な報告が――」
「共有フォルダに上がっていた、帝王フーズ向けの試算データ。あれ、あなたが昨日の夜作ったものよね」
雫の声には、一切の感情がこもっていなかった。
澪は少しムッとしながら頷いた。
「ええ、そうです。先ほど先方から、あの条件で仮承諾をいただきました。年間20億円規模の契約になります」
誇らしげに語る澪。
しかし、雫は大きなため息をつき、手元の紙を澪のデスクの上にバンッと置いた。
「あのさ。あなた、Excelのマクロ組む時に、どこをどういじったの?」
「え……?」
「ここのC列からF列に展開されている、原価計算の参照セル。これ、先週あなたが別の案件で使っていた古いフォーマットの数式のままよ。つまり、今回の帝王フーズ向けの『特別配送の物流コスト』と、あなたが丸呑みした『5000万円の協賛金』が、最終的な利益計算の数式からごっそり抜け落ちているのよ」
「……は?」
澪の思考が、一瞬そこで止まった。
「抜け落ちて、いる……? そんなはずありません! 昨日の夜、私は何度も数字を確かめて……っ」
澪は慌ててノートパソコンを操作し、昨夜作ったExcelファイルを開いた。
雫は澪の手元からマウスを奪うと、冷徹な手つきでカチカチと数式を修正していく。
「あなたが手入力でいじったせいで、セルの参照がズレたのよ。ほら、これが正しい数式を適用した、本当のシミュレーション結果よ」
雫がエンターキーを叩いた瞬間。
画面右下の、『+5%(約1億円)』と表示されていたセルが、パッと切り替わった。
そこに表示されたのは。
『-15%(約3億円の赤字)』
という、血の凍るような真っ赤な数字だった。
「ぁ……」
澪の喉から、ヒュッと息を呑む音が漏れた。
全身の血が逆流し、手足の先から急速に温度が失われていく。
「さ、さんおく……の、あかじ……?」
「そうよ。この条件で契約を結べば、うちの会社は帝王フーズに商品を納品すればするほど、トータルで3億円の赤字を垂れ流すことになる。……どういうことか、説明してもらえるかしら」
雫の声は、もはや怒りを通り越して呆れ果てていた。
その騒ぎを聞きつけ、周囲の先輩たちも何事かと集まってきた。
そして、オフィスの一番奥から、ヒールを鳴らして玲奈が歩み寄ってきた。
「……何事? 佐々木さん、藤本さん」
「課長。佐々木さんが、上司の決裁も仰がずに帝王フーズと独断で交渉を進め、自社が3億円の赤字を被る条件のまま、先方から仮承諾を取り付けてしまったようです」
雫が淡々と報告すると、玲奈の顔からスッと表情が消えた。
それは、澪が入社して以来、一度も見たことがないほど恐ろしい、絶対零度の怒りの表情だった。
「……佐々木さん」
「か、課長、これは……違います、私はただ、会社の利益になると思って……っ」
「利益!? 3億円の赤字のどこが利益なの! そもそも、帝王フーズのような、『未開拓リスト』に埋もれたままの企業に、なぜ私に一言の相談もなくアプローチをかけたの!」
オフィス中に響き渡る、玲奈の激怒の声。
澪はビクッと肩を震わせ、後退った。
「す、すぐに……! すぐに先方に電話して、計算間違いだったと伝えて、白紙に戻してもらいます! だから……っ」
澪はガタガタと震える手でスマートフォンを取り出し、帝王フーズの黒田へと発信した。
「はい、黒田です。どうしたの佐々木さん、もう稟議通った?」
スピーカーから漏れる呑気な声に、澪は泣きそうになりながらすがりついた。
「く、黒田部長! 申し訳ありません……っ! 昨夜お送りした資料の数字に、重大な誤りがありまして……っ! 弊社の利益計算が間違っておりました。あの条件では、どうしても契約を結ぶことができません。先ほどの仮承諾のお話は、どうか白紙に……っ!」
澪が必死に懇願した、次の瞬間。
「――は?」
電話口の空気が、一瞬にしてドス黒く濁った。
「てめえ……ふざけてんのか?」
「ひっ……!」
「数字間違えました、ごめんなさいで済むと思ってんのか!? こっちはもう、社長のハンコをもらって全店舗の改装スケジュールまで動かし始めてんだよ! お前のそのいい加減な提案のせいで、どれだけの機会損失が出ると思ってんだ!」
怒鳴り声がスピーカーから響き、オフィス中の空気が凍りつく。
「も、申し訳ありません! 完全に私のミスで……っ! ですから、どうか……!」
「白紙に戻すのは構わねえよ。だがな、こっちが被った損害と、約束を反故にされた機会損失分として、違約金5億円をきっちり御社に請求させてもらうからな! 今すぐ御社の法務部に連絡させてもらう。首洗って待ってろ!」
ツーツー、という無機質な電子音が響き、電話は一方的に切られた。
「あ……ああ……っ」
澪はスマートフォンを取り落とし、ガクンと膝から崩れ落ちてその場にへたり込んだ。
あまりの恐怖と絶望に、下半身の感覚が完全に麻痺していた。
タイトスカートの下でじわりと温かいものが漏れ出し、震える太ももを伝って床に小さな水たまりを作っていく。
だが、今の澪には、自分が失禁してしまったという羞恥心すら抱く余裕はなかった。
取り返しがつかない。
自分の焦りとプライドのせいで、会社に5億円もの損害賠償請求を招いてしまったのだ。
「……なんてことをしてくれたの」
玲奈が、氷のように冷たい声で吐き捨てた。
「独断専行。ずさんなデータ管理。そして、会社に重大な損害を招きかねない背信行為。……佐々木さん、あなたは営業として、取り返しのつかないことをしたのよ」
「課長……ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
「私と藤本さん、それに大橋さんを呼んで、これから直ちに法務部と対策会議に入ります。……佐々木さん、あなたはもう、一切この件に関わらないで頂戴」
玲奈は冷酷に言い放つと、雫と大橋雅子を連れて足早に会議室へと向かっていった。
残されたオフィス。
澪の周囲には、『特攻隊長』の橘咲や、中堅の中川留美たちが立っていた。
しかし、誰一人として澪に手を差し伸べる者はいなかった。
「……信じられない。自分の手柄が欲しくて、こんな初歩的なミスをするなんて」
「最近おかしいとは思ってたけど、焦って周りが見えなくなってたのね。……自業自得だわ」
先輩たちの容赦のない冷笑と、ゴミを見るような視線。
それは、澪がこれまで後輩の佳奈に向けていた軽蔑の視線と、全く同じものだった。
「違う……私は……っ」
誰かに助けを求めようと周囲を見渡すが、皆、澪から逃げるように自席へと戻り、関わり合いになるのを避けていた。
後輩の佳奈だけが、オロオロと心配そうに澪を見ていたが、声をかける勇気はないようだ。
完全に、孤立した。
エースとしての栄光も、恋人との関係も、居場所も、すべて失いかけている。
◇
夜。
全員が帰り、フロアの照明が落とされた薄暗いオフィス。
澪は自分のデスクに座り、ただ一人、虚空を見つめていた。
洗面所で最低限の始末だけはしたものの、あの瞬間の冷たい感触と羞恥だけが、まだ肌に張り付いているようだった。
涙すら枯れ果て、心の中にあるのは絶対的な絶望と、深い自己嫌悪だけだった。
(私が……全部、悪いんだ……)
誰も分かってくれないと嘆いていた自分が一番、周囲のことを何も分かっていなかった。
プライドに固執し、後輩を妬み、恋人を傷つけ、最後は会社に億単位の損害を招きかねないミスをして自滅した。
こんな人間に、もう生きている価値なんてない。
澪は震える指でマウスを操作し、社内のイントラネットから、一つのフォーマットをダウンロードした。
『退職届』
白地に黒の明朝体で書かれた、冷たい文字。
澪はプリンターでそれを出力すると、引き出しから黒いボールペンを取り出し、カタカタと震える手で自分の名前を書き始めた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
誰もいない暗いオフィスに、澪の啜り泣く声だけが、ただ虚しく響き続けていた。




